【このニュースって何?】天安門事件から35年 → 天安門事件って何だったの?
《日々のニュースの中に「学び」のきっかけがあります。新聞を読みながら、テレビを見ながら、食卓やリビングでどう話しかけたら、わが子の知的好奇心にスイッチが入るでしょうか。ジャーナリストの一色清さんがヒントを教えます。》
学生や市民が民主化を要求
2024年6月4日、中国の天安門事件から35年がたちました。日本や台湾では追悼行事が開かれました。一方、中国では事件はタブー視され、報道されることはありませんし、ネットで検索することもできません。 香港では19年まで毎年追悼集会が開かれていましたが、中国の締め付けが強まって開かれなくなっています。また、24年5月には天安門事件を追悼するSNS投稿が法に触れるとして8人が香港の警察当局に逮捕されました。 35年たった今でも中国政府が過敏に反応する天安門事件とは、どういう事件だったのでしょうか。そして、事件は今の世界にどういう影響を与えているのでしょうか。 中国(中華人民共和国)は第2次世界大戦後、中国共産党により建国されました。建国の立役者だった毛沢東氏がトップとなり、共産主義の国づくりを進めました。1976年に毛沢東氏が死去したのち、鄧小平氏が最高指導者となり、経済の自由化などの改革開放路線をとりました。 当時、世界はアメリカを中心とする西側の自由主義陣営とソ連を中心とする東側の社会主義・共産主義陣営とが対立する冷戦時代が続いていました。しかし、80年代になると東側の国の経済の行き詰まりが目立ち始め、改革が迫られるようになりました。 東側の盟主であるソ連では、85年にトップである書記長に就任したゴルバチョフ氏が民主化や情報公開を進めました。中国でもそうした影響を受け、政治の民主化を求める声が強くなっていきました。 中国の政権内でも民主化に理解を示す改革派が台頭していました。80年代半ばのトップである胡耀邦総書記は改革派でした。しかし、胡総書記の改革は共産党一党支配を揺るがすものとして保守派の反発を受け、87年に総書記を解任されました。 胡氏は89年4月に病死しました。胡氏を評価する学生や市民は胡氏を追悼しようと、北京の天安門広場に集まりました。集まる人々は日がたつにつれて増えました。次第に追悼から民主化を要求する政治的な集まりになってきました。 当時のトップは趙紫陽総書記で、胡氏と同じ改革派でした。趙総書記は学生や市民の民主化要求に理解を示しましたが、実力者の鄧小平氏や李鵬首相らは学生や市民の行動を「動乱」とする立場を崩しませんでした。 5月19日未明、趙氏は天安門広場の学生たちの前に現れ、ハンドマイクを持って「来るのが遅すぎた。申し訳ない」と述べたうえで、学生たちに退去するよう求めました。これを最後に趙氏の姿は見られなくなりました。失脚したのです。 そして、翌20日には北京市に緊急事態を宣言する戒厳令が出されました。 ただ、天安門広場の学生たちが退去することはありませんでした。抗議を表すために食べ物をとらないハンガーストライキをしたり、戒厳令布告に反対する100万人規模のデモがあったりして、民主化要求はさらに盛り上がっていきました。