内視鏡AIでがんの見逃しをゼロに 世界の患者を救う使命感 AIメディカルサービス代表取締役CEO・多田智裕
■大学病院に残るのではなく 開業医になる道を選択 1971年、東京に生まれた。会社員の父、専業主婦の母、三つ下の弟の4人家族。多田が幼稚園のとき、神戸に引っ越した。誰に言われるわけでもなく夢中になったのは勉強。とりわけ数学が好きだった。関西屈指の進学校、灘中に入学する。 「世の中にはとんでもない頭脳の持ち主がいる、と知ったのはこのときです。超がつくほど頭がよく、1を聞いて10理解してしまう。小学校でトップでも、ここでは並以下になる現実でした」 気づいたのは、比べることの無意味さだった。わざわざ劣った自分を認識する必要はない。隣を見ない、隣と比べない、それより自分自身と闘い、自分自身に勝つ。そんな思いを持つようになった。実際、中学では多田の成績は170人中160番あたりをうろうろしていた。だが、焦りはなかった。大学受験まで6年ある。最終的に結果を出せばいいと考えていた。そして高校3年で東京大学理科三類への受験挑戦を決め、合格する。 医学部の同級生でのちに医局、大学院とも同じになる日本橋室町三井タワー ミッドタウンクリニック院長の畑啓介(52)は、1年のときに多田が起こした行動を今もよく覚えている。 「自分でテニスサークルを作ったんです。それで仲間たちと活動をしていた。当時は、珍しかったと思います。今、思えば、この頃から何かを自分で切り開くというか、自分なりに新しいものを作っていくという片鱗(へんりん)があったような気がします」 その後、多田は塾講師や家庭教師などのアルバイトに追われるようになる。20歳のとき、両親が離婚してしまったからだ。学費こそ奨学金で賄えたが、医学部では教科書代だけで月に数万円かかる。生活費も含めると月に10万円以上はアルバイトで稼ぐ必要があった。 6年間の学部を終えると東大病院に勤め、大学の医局へ。さらに医師として経験を積み、外科専門医を取得すると大学院で4年間過ごし、博士号を取得した。ここまでは東大医学部生のスタンダードなキャリアだった。大学院を終えたら、東大病院で外科医として臨床の道に戻るはずだった。だが、多田はここで、異なる選択をする。