江戸時代に庶民にも行き渡った「白米」はある災いをもたらした
江戸時代には、成人は米を1日当たり五合も食べていたという。純白米は庶民にも少しずつ行き渡るが、それはとある病の原因にもなった。 『ダンジョン飯』から学ぶ 伝統的な食事はどう生まれるのか? ※本記事は『江戸の食空間――屋台から日本料理へ』(大久保洋子)の抜粋です。
白米と江戸わずらい
当時の成人の一日当たりの米の量は、五合とされていた。副食がご飯を食べるためのものとして発展し、ご飯とおかずというパターンが日本食の基本になるのも、こんな状況下で生まれている。 とくに江戸では庶民層にも白米が普及し、上下の身分を越えて口にすることができた。玄米よりも精白米にしたものがおいしいことがわかると、精白度を高くして食事にもちいたので、五代将軍綱吉(在職1680~1709年)はついに脚気になっている。 多田鉄之助『たべもの日本史』(1972年、新人物往来社)によれば、それは綱吉が将軍になる以前、館林(現・群馬県)にいたころの話であるが、江戸市中一般でも精米の技術が進み、いわゆる白米が上流階級に好まれ、1691年(元禄四)に脚気が出始めたという。 江戸中期以降、江戸市中の町人たちも脚気で死亡することが多く、「江戸患い」といわれた。綱吉の脚気は御典医の見立でかなりいい加減ではあるが、転地療養となり、練馬に別荘を建てて養生したところ回復したという。その際に尾張藩から尾州大根の種をおくられ、練馬の桜台に植えたのが練馬大根の発祥という。(続く) レビューを確認する 第3回では、天ぷらなどの「ファストフード」を口にすることは許されなかった将軍の食生活を見ていく。徳川家慶が実際にとっていた献立を見てみると、そこには庶民との大きな違いがあった。
Hiroko Okubo