果たされなかった「1月13日の再会」 中村哲さんの遺志継ぐJICA専門員
中村さん関与の地域、なぜ「平和」に?
「先生が関わった地域はその後も平和」、とは具体的にどういうことでしょう。永田さんが解説してくれました。 「ほとんどの国や団体の開発援助は、きれいなコンクリート造りの水路を造って、『これを使ってください』なんです。それが普通なんです。一方、中村先生のやり方は一線を画していました。なぜなら、用水路造り自体を現地の農民に手伝ってもらい、『自分たちの水路』という認識を持ってもらえるからです。彼らは石を使った土木作業がとても上手い。自分たちで造ったものには愛着がわき、不具合が起きたときにも自分たちで直すのです」
また、そこでの労働に対してはペシャワール会から給料が払われる仕組みです。農民たちはもとより、武装組織のメンバーに対して武装解除しても働けることを認識してもらう効果もありました。 このような活動をしているうちに、親せきを頼って家族が戻ってきたり、難民としてアフガンを離れていた人が戻ってきたり、という現象も起きるようになっていったのです。 一連の活動はアフガニスタン国内でも評価され、昨年はガニ大統領から「市民証」を渡されるほどでした。
「100の診療所より、1本の用水路を」
中村哲さんは医師です。もともとはパキスタンやアフガニスタンで現地の人の治療にあたっていました。それがなぜ、用水路造りに力を入れるようになったのでしょうか。 ペシャワール会などによると、中村さんが初めてパキスタンに入ったのは1978年のこと。キリスト教徒でもある中村さんは、1983年にも日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)によって同国に派遣されました。当初は会の名前が示す通り(ペシャワールはパキスタンにある都市名)パキスタンで活動し、内容もアフガン難民への診療、ハンセン病患者への診療など治療者としての動きが中心でした。その後、活動領域が徐々にアフガニスタンに広がります。 永田さんによると、中村さんの関心が用水路へ向いた決定的な分岐点は、2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつだと言います。 「400万人くらいが飢餓線上をさまよう、もの凄い干ばつだったのです。その状況を目の当たりにして先生は『100の診療所よりも1本の用水路を』との考えに至ったのです。干ばつで農業がだめになり、しかも空爆の被害を受けた人たちにはまず食料を与えるのが普通でしょ、というのが先生の考えでした」