「原発大事故、つぎも日本」ある住職の悔恨の念を伝える小さな施設 核被害の悲惨さを福島から発信し続ける意味とは
2011年の東京電力福島第1原発事故で一時、全ての町民が避難を強いられた福島県楢葉町。山あいの宝鏡寺に「伝言館」という小さな施設がある。中に入ると、壁に飾られた「原発大事故 つぎも日本」のメッセージが目に飛び込んでくる。原発事故に関する説明や、事故後に撮影した町の写真。そして広島と長崎の原爆被害や、ビキニ水爆実験のパネルもある。 原爆投下から78年。第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件は、来年でちょうど70年を迎える。原発事故から12年が過ぎた福島にある伝言館の意味とは。(共同通信=堺洸喜) ▽届かなかった声 伝言館は、昨年12月29日に死去した宝鏡寺住職の早川篤雄さん=享年(83)=が2021年、立命館大名誉教授の安斎育郎さん(83)と開いた、核被害を学べる場だ。 伝言館創設のきっかけは、原発の危険性を訴え続けたにもかかわらず、事故が起きてしまったことへの2人の悔恨の念だった。
早川さんが原発の安全性に疑念を抱いたのは、福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)に続く、福島第2原発の候補地に楢葉町が浮上した1960年代のことだった。勉強会に参加したときに、大学教授から「原発から放射性物質が飛散すれば非常に危ない」と聞き、衝撃を受けた。「そんな原発を、生まれ育った楢葉町に持ってきてはいけない」。早川さんは、住民有志を集め勉強会を開くようになった。 1973年、当時安斎さんが助手を務めていた東京大の研究室に一本の電話が入った。「原発の危険性について、科学者として公聴会で意見を言ってほしい」。早川さんからだった。 安斎さんは東大原子力工学科の1期生。原子力の専門家ながら、日本の原発政策の問題点を認識し、批判していた。 2人は福島市で開かれた第2原発の公聴会で反対の意見を述べたが、その声は反映されず、第2原発は楢葉町と富岡町に建設が決まった。早川さんらは、75年に第2原発1号機の設置許可取り消しを求め、福島地裁に提訴。早川さんは事務局長を務め、安斎さんも資料の作成などを手伝った。この裁判では、84年に福島地裁が早川さんらの請求を棄却。90年に仙台高裁が、92年に最高裁が福島地裁判決を支持し、早川さんらの主張を退けた。