実は不登校の子どもにも親にも問題はありません 多様な学びを提供できない行政と大人の責任
■かつて「学級が嫌い」になった大学教員の私 最初の一歩レベルのことですらできることはたくさんあります。 学びや心にストンと落ちる速度も契機も異なる多様な子どもたちに対して、どうして「同じ量、同じ課題、同じやり方」を強要するような宿題を出すのでしょうか? 自分の学びにおける「気づき」を知らせたい先生がどうしてこんなに少ないのでしょうか? 少子化になれば「夢の20人学級実現」と思っていたのに、どうして今「教員不足」によって、ハードワークに追い込まれた多くの教員のうつ病が発生しているのでしょうか?
私は、ある意味で学校の終着点である大学の教員ですが、中学校くらいから「学び」がしたくて「学級が嫌い」になった者として、大学は学びの場と時間を選択できる、相対的にストレスの低減された場所でした。「そこに到達するまでは耐えよ」と言われて、ギリギリで生きてきました。 しかし、それを21世紀の「1人1台ポケットにコンピューター(スマホ)をもって、大量の情報の選択とコミュニケーションを強いられる」ティーンズたちに要求するのは、大人の怠慢だと思うのです。
かつて「学校に行かないと惨めな人生が待っている」と脅された私は、そういう追い詰められたティーンズの最中、人間としての自然体を維持できるものと空間を自分で発見せざるを得ず、音楽と楽器に没頭しました。 ■文科省も認める「不登校の責任」とは しかし、それはひたすら僥倖であったのです。それを可能とさせる諸条件がたまたまあったからです。親と生まれる地域と時代は選べません。 学校に行かない子どもが家の中でゲームばかりをやっている姿を見る保護者のストレスも想像できます。かつて「学校だけは行け。行かないなら家を出ていけ」と生存の危機を通じて追い詰められたことのある私には、「行かない子ども」の気持ちも、「行かない子どもを見守る不安」もわかります。どうするのよ? これから?