実は不登校の子どもにも親にも問題はありません 多様な学びを提供できない行政と大人の責任
それでも学校に行くのが嫌な子どもは「登校拒否児童」とされ、その原因は「親のしつけ」と「子どものワガママ」だと教員や親に断定され、文部省の調査も「先生になされるアンケート」によるもので、子どもの声の聞き取りなど、この調査には含まれていませんでした。子どもは「教育(成形)の対象」であり、「行くのが前提」の時代です。 しかし、6歳から18歳までの未成熟な人間を、彼らの希望も聞かずに勝手に40人ぐらいの教室に放り込み、同じことを同じ工程で同じ時間で身につけさせるという、養豚場のようなことを150年やって来て、もう「それは学びじゃなくて無理ゲーの訓練だよ」とされつつあります。
そして、殖産興業と富国強兵、国威発揚と大陸進出と敗戦国家と高度成長とその終焉を経て、「サンセット・ジャパン」となりつつある今、次のようなことが、多くの人たちの認識となってしまいました。 「こんなやり方をいつまで続けるのですか?」 私は、これこそが数十万もの「学校に行かない」とした子どもたち、そしてそれでも耐えながら無理をして行っている「苦」登校の子どもたちのメッセージだと確信しています。 ■学力とは「苦行への耐性」への評価?
1960年代末に学校に入って、もう半世紀以上を学校で生きてきた私には、そうとしか思えないのです。 もうこのシステムでは、子どもたちはどんどん「学び」が嫌いになっていきます。もはや学力というものに含まれるのは、相当量の「苦行への耐性」です。名門大学に入学した者は「その程度の耐性があるのだな」と評価されているのかもしれません。 そして、「効率的情報処理」と「社会権力をもつ者への忖度」の技術を習得することに関心がない「学びたい」者たちは、「ドキドキしながら、時間を気にせず、好きなことを、好きなようにトライして確かめて、何かを発見する」ステージと時間を用意されない限り、楽しく生活するエリアも時間帯も見出せません。