実は不登校の子どもにも親にも問題はありません 多様な学びを提供できない行政と大人の責任
学校に行って校庭で同じ体操服を着せられて、真冬にジャケットを羽織ることも禁じられて、「前にナラえ!」と言われる理由がもはやわからないのです。 そもそもが、老若男女が共通してもつ大きな社会目標、時代的苦難や、国民的希望などがない時代に、人は「国家社会の発展のために技術と知識を効率的に短期間に身につけさせる訓練」をさせられ続けることなどできないのです。 頑張らないと西欧列強に植民地にされる、資源のない島国が生き延びるためにはアジア隣国を活用する、焦土と化した国土を復興させるなど、大きな共通目標がないのが21世紀のニッポンです。
■educateとは「外に引き出す」が原義 グローバル経済が、20世紀型の生産業と洪水のような輸出貿易と為替の差額で稼ぐモデルを無効にさせた後、明治以来「自分たちはどのような役割を果たして世界に貢献できるのだろう?」と、ただの一度もちゃんと議論をしたことがない私たちの国の人間は、同時に「40人が教室に放り込まれて同じことを覚えさせられる」理由もわからないのです。 もちろん私は、「座学などすべて廃止して、興味のおもむくままに好きなことを子どもたちにやらせるべきだ」などという極端なことを言いたいのではありません。
教育とは、〝educate〞、すなわち「〝e(x)〞外に〝ducatus〞引き出す(ラテン語)」という意味ですから、すべてにおいて個体が異なる未成熟な人間の何かを引き出すには各々固有のやり方と場が必要であり、それらを豊かに提供することこそが最も必要なことです。 現実には、100人の子どもに100通りのやり方で対応するような教育システムは、数十年の時間をかけねば提供できないとしても、少なくとも大人でも気の合わない他人数人と同じオフィスで過ごすストレスに耐えられないのに、40人と何百時間も一緒にさせられて、毎日定時に同じ教室に行かされるようなことを避ける「学びの場」を複数種類は用意できるはずです。