【細野晴臣、吉田美奈子、忌野清志郎、遠藤ミチロウ】かつて東京の西にあったシティポップな「狭山アメリカ村」とロックンロールな「国立ぶどう園」、2つの音楽コミューンの今
アメリカ村に根を下ろしたミュージシャンの暮らしぶり
細野のほかにアメリカ村で暮らしていたのは、小坂忠、吉田美奈子、洪栄龍といった、当時の音楽シーンで頭角を現しつつあった新進気鋭のミュージシャンたちだった。 1970年代にさまざまな洋楽アーティストを招聘し、のちにフジロックを主催するスマッシュの創設にも携わった伝説のプロモーター、麻田浩も狭山アメリカ村の住人。 麻田は、自ら監修し2023年に発売された写真集『狭山HYDE PARK STORY 1971~2023』(TWO VIRGINS・刊)の中で、若きクリエイターたちが狭山に集結した理由についてこう述べている。 ひとつには当時のハウスの賃料が安かったことにある。家によって賃料は違ったが、ほとんどが20,000円から25,000円くらいだった。 (中略) 当時アメリカなどではヒッピーたちのコミューンという言葉が出てきて、僕らの住んでいた“狭山アメリカ村”をそう呼ぶ人たちも現れ、雑誌でも取り上げられるようになった。ただアメリカ村の住民たち、特に若い人たちはそういう気持ちはなかったと思う。確かにみてくれはヒッピー然としていたが、僕らはもっと慎ましやかな地味な生活をしていた。 『狭山HYDE PARK STORY 1971~2023』(TWO VIRGINS・刊)アメリカ村では各々の家の周りに塀も垣根もなく、隣人との行き来が頻繁に行われていた。細野家の隣には小坂夫妻が住み、細野と小坂はふざけて糸電話でやりとりしていたそうだ。 細野家はアメリカンなデザインの中古ソファやベッドを置き、家の壁はモスグリーンのペンキを塗り、実家から持ってきた大量のレコードを並べていた。 そんな日本音楽史の聖地ともいえる狭山アメリカ村は現在、駐車場になっている。 少し歩けば近隣には今も古い米軍ハウスが点在するが、“強者どもが夢の跡”といった風情で、事前情報がなければ、ここがそんな特別な場所と気がつく人はいないだろう。
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