根岸季衣、20歳で『ストリッパー物語』の主役に抜擢。短大中退後“上から目線”で戻った劇団で看板俳優に「イヤだったらすぐ辞めます」
20歳のとき、つかこうへいさんに『ストリッパー物語』の主役に抜擢されて以降、『蒲田行進曲』などで絶大な支持を集め、多くのつか作品に出演し看板俳優となった根岸季衣(ねぎし・としえ)さん。 【写真を見る】映画『サユリ』で少女の霊への復讐戦に挑む祖母役を演じた根岸季衣さん 1976年、『新・女囚さそり 701号』(小平裕監督)で映画デビュー。銀河テレビ小説『愛さずにいられない』(NHK)、『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)、映画『時をかける少女』(大林宣彦監督)、映画『八月の狂詩曲(ラプソディー)』(黒澤明監督)、映画『ミッドナイトスワン』(内田英治監督)などに出演。 ミュージカル『ビリー・エリオット~リトル・ダンサー~』が東京建物Brillia HALLで公演中。映画『サユリ』(白石晃士監督)が新宿バルト9ほか全国公開中の根岸季衣さんにインタビュー。
つかこうへいさんとの出会い
東京で生まれ育った根岸さんは、幼稚園の学芸会で主役を演じたことがきっかけで芝居好きになったという。 「小さい頃からいろいろなことをやるのが大好きだったから、学芸会とかでやるツボを全部抑えちゃったっていうか。先生も扱いやすかったんでしょうね。他のお母さんからしてみれば、『何であの子ばかり?』という感じだったんですけど、そこら辺から味を占めちゃって(笑)。 本当は小学校から劇団とかに入りたかったんですけど、近くにないからやらせてもらえなくて。おまけに小学校のシステムとして、1回主役とかをやったらもうできないみたいな感じだったので、小学校時代は不遇でしたね。機会がなくてできなかったです。 それが中学になってダンスもやりたかったんですけど、近くにないからってやっぱりやらせてもらえなくて。高校になって、やっと高校のすぐそばにダンススタジオがあったので、ダンスを習いはじめました」 ――つかこうへいさんと出会ったのは? 「大学(桐朋学園大学短期大学部演劇専攻)にいるときですね。19歳でした。つかさんの芝居のチケットをもらったんだけど、学校の学園祭があるから行けなかったんです。でも、本番は見に行けないけど、ちょっと稽古を見たいなと思って、早稲田の6号館で稽古をしていたから見に行ったのが最初です」 ――そのときはどうでした? 「亡くなっちゃったけど三浦洋一と平田満と、あと『つかこうへい正伝-1968-1982-』(新潮社)という本を書いた長谷川康夫とか、みんな同じ19歳だったんですけど、腹筋している人はいるし、踊っている人はいるし…何だかわけのわからないアスレチッククラブみたいな状態で。『これはなんだろうな?』みたいな感じでした(笑)。 やっぱり全然違いましたからね。普段大学でやっている演劇とまるで違っていたので、ちょっと衝撃でした。 それで見ていたら、つかさんに『君、寒いだろ。踊んなさい』って言われたので、『そうですか』みたいな感じで(笑)。一番得意なところだったので、ワーッて踊っていたら、当時ハイセイコーという馬がちょうど出ていた頃だったので、『何かハイセイコーみたいなのが来たぞ』みたいな感じで(笑)。そういう出会い方で恵まれていましたよね」 ――それからつかさんのところに行くように? 「はい。『じゃあ、今度稽古があるから来ないか』みたいな感じで稽古に行くようになって。大学でやっていたのと全然違うから新鮮でしたね、本当に。 セリフの紙なんかを整理して持っていると、『そんなことをやっているからお前らはうまくならねえんだよ!』とかって言われて。つかさんは、“口立て”(くちだて=脚本がなく、その場で口頭の打ち合わせで芝居を作っていく)の世界でしたからね。『高い授業料払って、ろくなこと覚えてこねえな。ムダ金使いやがって。その分俺によこせ!』って言っていましたよ。口が悪いから(笑)」 外部の舞台に出演するようになった根岸さんだったが、桐朋学園の演劇部では学校以外での外部出演が禁じられていたため、「嵯峨小夏」という名前で出演していたという。 「がさつでしたからね。『ガサツな子』から嵯峨小夏という名前にしたんです。結局、大学は中退してしまいました」 ――根岸さんは、つかさんの世界にすぐなじめました? 「それはやっぱり罵倒もされるし、だんだんいじけてくる自分が何かイヤだなと思って。叱られてばかりだし、こんなにつらい思いをするならもう芝居を辞めようって思いました。もっと働いたら働いただけ評価される世界に行きたいなと思って、『保育園に行きます。幼稚園の先生になります』って一度辞めたんです」