中上貴晶かく走りき! 天才少年はいかにして最高峰まで歩みを進められたのか、MotoGPに至る軌跡とは?
MotoGPレギュラーライダーとしては最後のミサノ
「祥也に会ってきました…」 MotoGPサンマリノGP初日、最高峰クラスを走る唯一の日本人、中上貴晶(LCRホンダ・イデミツ)の姿は、ミサノ・サーキットの11コーナーにあった。 最高峰クラスを走る唯一の日本人LCRホンダ・イデミツ中上貴晶選手の画像を見る(10枚)
Moto2クラス初年度の2010年、優勝争いを繰り広げつつ散った富沢祥也が天に召されたこの場所を訪れるのは恒例だが、レギュラーライダーとして祈りを捧げるのはおそらくこれが最後。サンマリノGP前週の8月末には、2025年からはホンダのMotoGPマシン開発ライダーを務めることが発表されていた。 富沢はポケバイ時代からのライバルであり盟友だが、いち早くその名を知らしめたのは中上だった。
小学生の頃からレース界に名を轟かせた天才少年
ミニバイク全国大会を史上最年少で制した天才少年の存在は、すでに2000年代初めには関係者の間で話題になっており、筆者もレース専門誌に在籍中、まだ小学生の中上がとある洋品メーカーの発表会で登壇した姿を覚えている。 名門ハルク・プロから全日本ロードレースGP125クラスにデビューしたのが2005年。スポット参戦ながらルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、14歳で迎えた2006年は全戦全勝で同クラスを制覇。小山知良が持つ17歳の最年少チャンピオン記録を塗り替えた。
125ccクラスでの世界挑戦で味わった初めての挫折
また同じ頃、MotoGPを運営するドルナスポーツが創設した『MotoGPアカデミー』にも参加。レプソル・ホンダを率いるアルベルト・プーチの下で腕を磨き、MotoGPへの登竜門となっていたスペイン選手権125ccクラスに参戦。2年目の2007年は3位表彰台も獲得し、ランキング6位。その年のMotoGP最終戦で初めて世界に挑んだ。 けれどもとんとん拍子だったのはここまでだった。MotoGP125ccクラスにイタリアの中堅チームからフル参戦した2年間は、キャリアが停滞する。 2008年は最高8位のランキング24位。2009年も2回の5位が最高の総合16位と求めていたような成績を残せず、一旦、日本に戻ることを決断。 言葉の壁、慣れないコース、初めてのアプリリア、成長して軽量級を走るのに適さなくなりつつあった肉体……結果を出せなかった理由はいくつも考えられるが、自身は「気持ちの面がまず違っていた」と振り返る。「どん欲さが足りなかった。気持ちでトップ勢やヨーロッパのライダーに大きく負けていた」 最短距離で世界への道を駆け抜けてきた中上にとって、初めての挫折だった。