アートディレクター・山崎晴太郎「アート作品を前にすると身構えてしまう日本人の感覚をできるだけなくしていきたい」『余白思考デザイン的考察学』第4回
フラットな視点で作品を見てもらった感想が、次作の創作にも繋がっていく
──こうした個展を通して過去の自分の作品と向き合うと、新たな発想が生まれたり、次作へのイメージに繋がるきっかけになることもあるのでしょうか。 山崎 それはすごくあります。過去の自分の思考と向き合うからだけでなく、誰かに作品の説明をすることで、そこから新しいアイデアが派生していくことも多いです。脳が活性化されていくと言いますか、“この作品はもっとこっちの方向に伸ばしていけるな”といったアイデアが湧いてくる。それに、さまざまな感想や意見を直接もらうことで、そこからインスピレーションをいただくことも本当に多いんです。特に今回は初めて僕の作品をご覧になるという方が多く、そのため、感想の一つひとつがとても新鮮でした。最近は自分の作品を見せる対象者の同質性が高くなっていたんだなと気づかされたところがありましたし、フラットな感性や視点を持った多くの方々にクリエーションをストレートに届けることや、そこからたくさんの声を聞くことができましたので、そうしたところにも、この個展を開催した意味や意義を感じることができましたね。 ──また、今回の個展を経て、山崎さんの中で再発見したものはありますか? 山崎 あらためて思ったのは、やはり周囲の力の大きさは何者にも代えがたいものだということです。そもそも、デザイナーって作品を一人で創り出していると思われがちですが、実際は多くの人の支えがあって成し遂げられることばかりなんです。プリンティングディレクターやエンジニア、それにいろんな職人さんがいて、その皆さんが僕の頭の片隅にある小さなアイデアを全力で形にしてくださる。いわば、専門家の方々の集合体なんですね。そうした力は本当にかけがえのないものだと今回の個展を通じて実感しましたし、すべてを終えた今は、達成感と同時に、ちょっとした寂しさも感じています。 ──それは共同作業が終わってしまったことへのロスですか? 山崎 そうです。文化祭が終わってしまったあとの、あの“やりきった感”と一抹の切なさみたいなものです(笑)。とはいえ、今回ほどの規模ではないにしろ、9月と10月にはワルシャワとボスニアで展覧会がありましたし、年末にはベルリンでの個展も控えています。来年には中国でも個展を開催する予定ですので、しばらくはこの楽しさと忙しさが続きそうです。 ──次にどのような個展を開催されるのか楽しみです。 山崎 ありがとうございます。ただ、幅広く多面的に網羅する個展に関しては、今回があまりにも大変でしたので、しばらくは控えようかなと思っています(笑)。それよりも、せっかくこれだけの規模の個展を開催し、オフィシャル写真もたくさん撮影しましたので、今は図録を作ろうと計画しています。きっと、そこでもこれまでの自分の作品たちを反芻することになると思いますし、僕自身、すごく楽しみにしています。 ──期待しています! また、先ほど海外での展覧会のお話がありましたが、日本と海外を比べ、アート作品の捉え方や見方に違いを感じることはありますか? 山崎 すごくあります。もちろん、国や地域ごとに違いがありますし、たとえばアメリカだと、アートが日常に溶け込んでいるのを強く感じます。以前、アメリカのサクラメントという都市で個展を開催したのですが、その街に住んでいる老夫婦が犬の散歩をしながら、ふらっと会場に立ち寄ってくれたことがあって。でも、それって彼らにとっては日常的なことなんですよね。「この作品はどういうコンセプトなの?」とフランクに聞いてきますし。日本人はどうしても美術館に展示されたものやアート作品を前にすると身構えてしまうところがあるように思うのですが、それがまったくない。また、その時はCMも打っていただき、『砂でできたアイコン』シリーズのスニーカーをテレビで流してもらったのですが、それを見た子どもが「見たい!」と親を誘って、家族で来訪してくれたんです。たぶん、ポケモンのおもちゃとさほど変わらない視点でアートを楽しんでいる(笑)。そうした光景はすごく新鮮に写りましたね。 ──アートに対して崇高といった意識がなく、ハードルの高さも感じていないんですね。 山崎 そうだと思います。当たり前のように「これはいくらなの?」って値段も聞いてきますし(笑)。日本だと、“アート作品が売り物である”という概念すらあまりないかもしれない。そうした差は海外に行くと強く実感しますし、その壁をなくしていくこともこれからは大事になってくるのかなと思っています。