豊臣秀吉の「天下取り」に利用された織田信長の嫡孫【織田秀信(三法師)】
「本能寺の変」後に、明智光秀を破っていち早く「主君・信長」の仇を討った形の羽柴(豊臣)秀吉が中心になって、その織田信長後の織田家の後継者をどうするか── これを決める清洲会議が天正10年(1582)6月26日、開かれた。数多くいたうちの信長の息子たち(遺児)のうち、すでに家督を継いでいた嫡男・信忠(のぶただ)は信長同様に「変」で死亡していた。残った有力者は、次男・(北畠)信雄(のぶかつ)と3男・(神戸)信孝(のぶたか)の2人であり、しかも織田家の宿老筆頭であった柴田勝家が信孝に肩入れしていたことから、会議は紛糾の様相を呈した。 こうした雰囲気の中、2人の間を割って入ったのが秀吉であった。秀吉は、信忠の嫡男・三法師(秀信)を織田家の正統な後継者と発言した。確かに秀吉の言葉通り、信長と同時に討ち死にした信忠は、この時点で織田家を継承しており、美濃・尾張を領地として岐阜城主になっていた。しかも、秀吉はこの会議に出席していた他の宿老たち、丹羽長秀・池田恒興などにも手を打っておいたから、秀吉の意見が「正統」として通ってしまった。 会議の結果、織田家の継承者は三法師と決まったが、まだ3歳の幼時であったため、成長するまで、岐阜城主とされた信孝が預かるという形になった(実際には、近江・安土城にまず入り、その後に岐阜城に預けられた)。 秀吉は、信長の後継者としての三法師を立てた。7月8日に京都で行われた織田家の武将たちを揃えて謁見する場には、秀吉が幼い三法師を抱いて謁見に臨んだ(『多門院(英俊)日記』)。つまり、三法師が謁見する形を取りながら、謁見の主は秀吉というパフォーマンスであった。 こうしたやり方で、秀吉は小山内三法師を利用するだけ利用した。この後、秀吉は柴田勝家や徳川家康との戦いを経て、天下人の地位にのし上がっていくのだが、その間に信長の遺児である信孝は自刃させられ、信雄も除封(取り潰し)される。三法師は、元服後に「秀信」と、祖父・織田信秀の名前をひっくり返した名前を名乗る。 秀吉は、秀信を位打ち(実権を与えずに官位だけを上げていくこと)していく。「信長の嫡孫」という立場を尊重したように、先ず天正17年(1589)ころの従五位の下・侍従から始まり、文禄2年(1593)には従三位・中納言に叙任され、周囲からは「岐阜中納言」と呼ばれるようになった。とはいえ秀信には、領地はなく、大名でもない時代が続く。 中納言に任官したのは、岐阜城主であった豊臣秀勝(秀吉の甥)が朝鮮出兵の折に巨済島(コジェド)で病没したことで、その後の岐阜城主の座に秀信が13万石の大名として取り立てられたことによる。ここに至ってやっと三法師・秀信は、祖父・信長、父・信忠が天下統一の拠点にした岐阜城という伝統の城の城主になったのだった。 やがて秀吉が没し、慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦では織田家一族はこぞって西軍(石田三成方)に加担した。秀信は家臣団の様々な意見を聞いた結果、西軍として旗幟鮮明にし、岐阜城に籠城した。しかし、僅か3千余の兵で10倍以上の敵と戦うことを選び、木曽川河畔に陣を敷いてよく戦った。その後、岐阜城に戻ると東軍の福島正則・池田輝政らが総攻撃を掛け、支えきれずに8月23日、降伏した。 正則は「信長公の嫡孫ゆえ」と秀信の助命を家康に願い出た。秀信は助命され地元の寺に入り剃髪し、後に高野山に入ったが、5年後の慶長10年10月、25歳で病没した。
江宮 隆之