「宮藤官九郎作品は“不適切”」と批判する人に欠けた視点 「ホモソーシャル作家」という評価は実は正しくない
“文化祭が終わってない”というのは宮藤官九郎作品を、そしてとりわけ『木更津キャッツアイ』を考えるうえではキーワードになるだろう。 宮藤が脚本に加え監督も務めた映画『中学生円山』(2013年)の「考えない大人になるくらいなら、死ぬまで中学生でいるべきだ」というせりふを踏まえるならば、宮藤官九郎は、社会に出て考えなくなってしまった大人ではなく、今でも文化祭をどう楽しくするか思考をめぐらせてしまう“考える中学生”なのかもしれない。
『木更津キャッツアイ』で、高校時代同じ野球部で青春を送っていた5人は、20歳を過ぎていて、年齢上は大人である。だが、卒業後も日常の中に“文化祭的な”盛り上がる要素を見つけては突っ込んでいく。それがこの物語の基本スタイルである。 そして、21歳で余命半年という宣告を受けたぶっさんは、この物語の中で決して“考えない大人”になることはない。“考える中学生”のまま死んだ、と言ってもいいだろう。『木更津~』は、年齢的には大人だが“考える中学生”な彼らが、“文化祭”をし続ける物語でもあるのである。
そしてそこに、ぶっさんの死という終焉、“文化祭”が終わるかもしれない日がいつか来ることが感じられるからこそ、より切なさを増す――。『木更津キャッツアイ』は死の匂いと“文化祭の終わり”がクロスして切なさを創出しながらも、笑いにも満ちあふれた、紛れもない傑作なのである。 ■『木更津キャッツアイ』が批判の対象となる懸念 だが、それが“男たちだけの文化祭”であると捉えられたときに、現在の見え方として心配な点も生まれてくる。
『不適切~』放送時にきたクレームに「あいつ(宮藤)に女性がわかるわけがない」といったものがあったという。その理由を本人はこう分析する。 「若い人たちは配信で昔の僕の作品を見るから、『こんなことを書くやつに女性の気持ちが書けるわけない』ってそういう先入観があって見るから、『この表現はどうなんだ?』と引っかかるみたいです」(『月刊Hanadaセレクション月刊Takada芸能笑学部』、飛鳥新社) 配信による思わぬ“弊害”である。過去の作品を現代の価値観で論じることの是非はいったんおいても、『木更津キャッツアイ』が配信開始されたらこの論調はより強まってしまうかもしれない。