渥美二郎、千住の演歌師から紅白歌手へ!「次が売れなかったら辞めよう」勝負を賭けた『夢追い酒』が大ヒットするまで
16歳から演歌師としてのプロの道に入り、1978年発表の『夢追い酒』が大ヒット。昭和54年度日本レコード大賞ロングセラー賞をはじめ、多くの賞を受賞し同年第30回NHK紅白歌合戦に出場した演歌歌手の渥美二郎。彼の「THE CHANGE」とはーー。【第1回/全2回】 ■【画像】渥美二郎、千住の演歌師全員集合!ギターを抱えて昭和の街に繰り出す姿は壮観 僕の父は演歌師として東京都足立区の北千住で、父の弟と兄弟2人だけで始めたんですが、そのうち演歌師になりたい人たちが集まってきて、僕が中学生ぐらいのときは100人ほどを束ねていたんです。まあ、いろんな事情を抱えながらも、歌の大好きな人間の集まりでしたね。 当時は二階建ての事務所があって、一階には30~40人ぐらい若い衆が寝起きしていました。僕、本名が敏夫なので「敏坊、敏坊」って、ずいぶんとかわいがられましたね。彼らの仕事は大抵夜6時頃から始まるので、その時間になると、みんなゾロゾロと北千住のときわ通りにある歓楽街に繰り出して行ったんです。 僕も物心ついた時分には父の跡を継ぐんだという意志が芽生えて、高校も途中で辞めてしまったんです。もちろん、父には「高校ぐらいは出ておけ」って怒られました。でもね、どうせやるなら早いほうが良いと思ったんです。今振り返るとなんて浅はかだったんだと思いますけどね(笑)。 最初は若い衆たちにギターと歌を教えてもらいました。古賀メロディが大体弾けるようになった16歳のときに、僕も一人で歓楽街に繰り出すようになったんです。だけど……全然、声が掛からない。声が掛かったところで、弾ける曲も多くないから、お客さんのリクエストに応えられない。悔しかったですね。 嬉しかったのは、フラッと入ったお店で『裏町人生』とか『憧れのハワイ航路』とか5曲ぐらい歌ったときかな。聴いていたお客さんが「頑張れよ!」って励ましてくれて500円くれたんです。相場が3曲で200円の時代に、ですよ。もう、すごく感動しましたね。