高まる核の脅威、危機感訴えた被団協・田中熙巳さん「核兵器も戦争もない世界を求めて共に頑張りましょう」
【オスロ=美根京子、小松大騎】世界を動かすのは被爆者の力しかない――。国際情勢の緊迫化で「核のタブー」が揺らぐ中、ノルウェー・オスロで10日午後(日本時間10日夜)に開かれたノーベル平和賞の授賞式。「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」の結成にも立ち会った代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(92)は「二度と被爆者をつくらせない」という強い思いを胸に、講演に臨んだ。 【動画】被団協、ノーベル平和賞を受賞
「核兵器廃絶を目指して闘う世界の友人の皆さん」。田中さんは緊張した面持ちで壇上に立つと、そう呼びかけた。冒頭で核の脅威が高まる国際情勢に触れ、「『核のタブー』が壊されようとしていることに限りないくやしさと憤りを覚えます」と訴えた。
続けて語ったのは、伯母や祖父ら親族5人を失った中学1年の時の凄惨(せいさん)な自身の記憶だ。
1945年8月9日、長崎の爆心地から3・2キロ離れた自宅で被爆した。真っ白な光に驚き、目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けた。その後の記憶はないが、奇跡的に無傷だった。
3日後、2人の伯母を捜しに、爆心地付近に入った。目の前に広がる黒く焼き尽くされた廃墟(はいきょ)。焼け落ちた家の周りには遺体が放置されていた。「ほとんど無感動になり、人間らしい心も閉ざした」。父方の伯母は自宅の焼け跡に黒焦げの姿で転がっていた。
「たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない」。軍人志望だった少年の心に深く刻まれた。
「生き残った被爆者たちは孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるを得ませんでした」。多くの人が口を閉ざしていた。しかし、54年3月、米国の水爆実験で船員らが被曝(ひばく)した第五福竜丸事件が起きると、原水爆反対の機運が一気に高まった。
田中さんは56年8月、長崎市で開かれた第2回原水爆禁止世界大会に足を運び、被団協の結成に立ち会った。結成宣言では「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意が示された。