登園中、国道に飛び出したダウン症の弟...泣きじゃくる母が繰り返した「だいじょうぶ」
2023年6月、ある動画がSNSで話題になりました。動画では、警報機が鳴り響く中、線路に降り立った人に、母親とおぼしき人が駆け寄り、抱き締めて、落ち着かせようとする様子が映っていました。列車に遅れが生じたことへ批判が集まっていたSNSに、作家の岸田奈美さんは、ある文章を投稿します。それは、『国道沿いで、だいじょうぶ100回』というエッセイでした。 【写真】岸田奈美さんの亡くなったお父さんが愛したボルボ ※本稿は、岸田奈美著『国道沿いで、だいじょうぶ100回』(小学館)から一部抜粋・編集したものです。
国道沿いで、だいじょうぶ100回
子どものころ、人気の遊び歌があった。 「奈美ちゃん、奈美ちゃん、どっこでしょう~♪」 保育園の先生が歌う。 「ここでっす、ここでっす、ここにいます~っ♪」 子どもらは大喜びで、返事をする。母が歌う。 「良太くん、良太くん、どっこでしょう~♪」 返事はない。弟はいつもどこかにいたけど、いつもここにはいなかった。 ジッとしてられない弟だった。だまってられない弟だった。保育園でも、小学校でも、歩道でも、公園でも、むちゃくちゃに跳ねまわっていた。軌道がまったく読めないスーパーボールみたいだ。捕まえられるのは、母だけ。弟を取り押さえるときに発揮する、母の爆発的な初速は、ラグビー選手のようだった。 保育園へ行く途中のことだ。 弟が国道へ飛び出した。 一瞬だった。母の足の間を急回転ですり抜け、彼にしか見えないなにかを追って、自由な魂みたく駆けてった。道路のド真ん中で、弟はピタッと立ち止まる。凍りついていた母の時間が動いた。声もかれる絶叫だった。母は死ぬ覚悟で体を投げ出し、弟の服のフードをガッとつかむと、歩道へと引きずり戻した。 大型トラックが、轟音とともに走り去っていった。あと5秒、遅れていたらだめだった。母は地面にへたりこみ、震えながら、弟を抱きしめて放さなかった。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」 泣きじゃくりながら母が繰り返していた言葉を、わたしは忘れない。