松本明子、ヒデちゃんと深い絆!一生をかけての恩返し
あと、デビュー直後に撮影した宣材(宣伝材料用)写真を見ると、中山さんも私も同じ衣装を着ているんです。というのは、当時はお金も全然なかったんで、写真を撮るといっても衣装がないんです。しかも、デビュー当時というのは、テレビ局などに売り込んでもらうために宣材写真を撮影する機会がより一層たくさんあったんです。そうなると、とてもじゃないですが、そんなに何パターンも衣装を持っていない。なので、2人で衣装を貸し合うんです。私のカーディガンを中山さんが着て、中山さんのジャケットを私が着てという感じで。 …それとね、1984年でした。私が、生放送で言ってはいけない言葉を口走ってしまう、世にいう“四文字事件”というのがあったんですけど、その放送も、寮のリビングに置いてあるテレビで中山さんは生放送で見ていたんです。ま、その瞬間、思わずひっくり返ったそうですけどね(苦笑)。 CMあけからいきなり私が画面から消えていて、タクシーに乗せられ、寮に戻ってきた。中山さんは放送だけでなく、寮に戻って呆然としている私もずっと見てくれているわけです。ま、ちょっといいように言うと、“歴史の生き証人”です(笑)。 その翌日から仕事は謹慎になる、学校に行くのも恥ずかしい、寮にいても居場所がない…。そういった中で、とにかく国立駅のベンチで過ごすというようなことをしていたんですけど、実は、中山さん、そこも心配して見にきてくれていたみたいなんです。ずっと時間が経ってから「あの時は、ホームで一日中時間をつぶしてましたもんね」と言われ、気にして見てくれていたんだ…と気づきました。 この時代からすでにそうだったんですけど、今に至るまで、ずっとこちらを見てくれているんですよね。あらゆる形で。 「四文字事件」があり、仕事もなくて鳴かず飛ばず。そんな歌手時代を私が過ごしている頃、もう中山さんは「ABブラザーズ」としてブレイクし、あっという間にスターになっていった。その頃は事務所の中でもバラエティー班、ドラマ班、歌手班みたいに別れていて、そこで中山さんが「ネエさん、よかったら、俺もいるし、バラエティー班に来ませんか?」と声をかけてくれたんです。そこから、会議室で発声だとか、コントの練習だとか、1週間あったことをみんなの前で楽しく話すだとか、そういった稽古を中山さんとか「ホンジャマカ」さんとかとやるようになったんです。 ちょうど“バラドル”という言葉もその頃から付けていただき、お仕事も増えて、そんな流れの中で、「DAISUKI!」だとか「電波少年」シリーズだとか「TVチャンピオン」だとか、ありがたいお仕事をさせてもらうようになったんです。だから、中山さんがそこで導いてくれてなかったら、とっくに四国に帰っていたと思います。