ルネサンス画家・ボッティチェリの修業時代 ── 才能はどう開花したのか
「ボッティチェリ」という画家の名前は、日本ではあまり馴染みがないかもしれません。けれども《春》や《ヴィーナスの誕生》の絵画を知らない人はいないでしょう。たいていの人は学校の教科書で見たことがあるにちがいない、金髪をなびかせて貝柄の上に立つあのヴィーナスを描いた画家がボッティチェリです。 15世紀後半のフィレンツェで活動したボッティチェリは、レオナルド・ダ・ヴィンチと肩を並べる芸術家として名を馳せ、時の権力者メディチ家の庇護を受けながら、かの有名なヴィーナスをはじめ、清らかな聖母子像から壮麗な祭壇画まで、数々の絵画を描きました。フィレンツェ・ルネサンスの象徴ともいえるボッティチェリはどのような人物で、どのような表現を生み出したのでしょうか。まずはその生い立ちから紐解いてゆきましょう。
ボッティチェリの生い立ち
サンドロ・ボッティチェリ、本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピは、1445年頃にフィレンツェの皮なめし職人の息子として生まれました。4人兄弟の末っ子で、大酒飲みで大食いの長兄ジョヴァンニが「ボッティチェロ(小さい樽)」と呼ばれていたので、弟のボッティチェリも同じあだ名で呼ばれるようになったといいます。一家はアルノ川河畔に立つオニサンティ聖堂近くに居を構え、慎ましやかな生活を送っていたようです。ボッティチェリは、30代半ばにローマに1年ほど滞在したほかは、その一生をフィレンツェで過ごし、生涯独身のまま、家族とともに暮らしました。
フィリッポ・リッピのもとでの修業時代
1460年頃、ボッティチェリの父は息子の絵画の才能に気づき、フィリッポ・リッピの工房に入門させました。修道士にして画家であったリッピは当時、フィレンツェの隣町のプラートで工房を営み、多くの助手や弟子とともに制作を行っていました。ボッティチェリは師の様式を熱心に学び、たちまち技量を上げてゆきます。初期の《バラ園の聖母》(ウフィツィ美術館)においては、情愛あふれる聖母子の表現や細やかな衣襞の描法、聖母の可憐な容貌などに、リッピからの影響が強くあらわれています。 1470年頃に独立し、自分の工房を構えることになったボッティチェリは、腕前をみせるチャンスに恵まれます。フィレンツェの商業評議所からピエロ・デル・ポッライオーロに依頼された美徳の擬人像7点のうちの1点を託されたのです。そこでボッティチェリは、先輩に引けをとらない堂々たる女性擬人像を描き、公的なデビューを果たしました。