ルネサンス画家・ボッティチェリの修業時代 ── 才能はどう開花したのか
ヴェロッキオ工房とレオナルド・ダ・ヴィンチ
フィリッポ・リッピは1466年にプラートを離れ、スポレートという町に拠点を移しました。残されたボッティチェリは、フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に出入りするようになります。多くの優れた弟子を輩出したことでも知られるヴェロッキオ工房には、レオナルド・ダ・ヴィンチがいました。ボッティチェリとレオナルドは、ヴェロッキオによる《キリストの洗礼》のなかの二人の天使をそれぞれ描いたという説もあり、おそらく工房で顔を合わせる関係にあったと考えられます。我が道をゆくレオナルドは、同時代の芸術家にはあまり関心がなかったようですが、その手記のなかで唯一名を挙げている画家がボッティチェリでありました。メディチ家に寵愛され、注文の絶えないボッティチェリを、レオナルドはライバルとして意識していたのかもしれません。二人の関係は、1470年代初頭に制作された《シモンの家の宴》(フィラデルフィア美術館)にもあらわれています。この小さな板絵におけるキリストの頭上の窓や群像の構成は、レオナルドが後年に描く《最後の晩餐》を想起させます。二人は競い合う関係にあっただけでなく、互いに影響を与え合う同志のような間柄だったのでしょう。
名声の確立
画家として独立した後、30歳頃に制作したのが《ラーマ家の東方三博士の礼拝》(ウフィツィ美術館)です。メディチ家の人々の肖像や画家の自画像が描き込まれているという点でも興味深いこの絵画の見どころは、綿密に計算された構図にあります。ボッティチェリは奥に向かって傾斜する地面に群衆を巧みに配し、聖母子をピラミッド型の構図の一番高いところに置くことによって、多数の登場人物がひしめく賑々しさを保ちながら、中心となる出来事に観者の視線が自然に向かう構図を作り上げました。
それから約5年を経た1480年頃に制作されたのが、《書斎の聖アウグスティヌス》(オニサンティ聖堂)です。たっぷりとした衣服の量感、瞑想に耽る聖人の彫りの深い表情、書物や時計、天球儀などの静物が緻密に描写され、加えて、胸に手をあてる身振りや、節々のはっきりとした手の描写などに、後年の絵画でも繰り返されるボッティチェリらしい特徴をみてとることができます。16世紀の芸術家、美術史家のジョルジョ・ヴァザーリによれば、ボッティチェリはこの絵画によって名声を得て、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画制作という新たな仕事を獲得しました。1年間のローマ滞在を経て、フィレンツェに戻ったボッティチェリは、1480年代に円熟期を迎え、さらなる傑作を生み出してゆくこととなります。 【東京都美術館・担当学芸員 小林明子:専門はイタリア・ルネサンス美術。担当した展覧会に、「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」(2013年)、「バルテュス展」(2014年)、「ウフィツィ美術館展」(2014年)など】