ライオン宰相・濱口雄幸の直筆に見る凶弾の痛苦 国立国会図書館で閲覧できる死への道程
それでも無理を押して3月10日の衆議院本会議に登院し、翌日には貴族院本会議に出席を果たした。しかし、1カ月もたなかった。3月28日の日記。 <一、閉院式奉行、病気のため欠席(略)両院議員、政府委員招待、これまた欠席。 一、この頃体力の衰弱その極みに達す、その原因不明。>(昭和6年3月27日と28日のページより) 体調は回復せず、4月4日には「腸の癒着を解除する」手術のために再入院を余儀なくされる。ここで現職の復帰を断念し、首相と党総裁の職を辞任することになった。4月9日に2回目の手術の結果を記している。
<一、第二回の手術を受く。左腹部、肋骨の下方に蓄積されたる膿を排出せんがためなり。はたして手術の結果多量の膿出づ>(昭和6年4月9日と10日のページより) その後、日記の頻度は極端に落ちる。議会に復帰する思いや日々の体調の変化もほとんど記されず、「直子帰朝す」(4月10日)、「雄彦帰朝」(5月13日)など、親族の動静をまれに短く記載する程度だった。空白のページが続いたあと、6月28日に最後の筆が残されている。
<退院、久世山の自宅に入る>(昭和6年6月28日と29日のページより) 日記はここで終わっている。一方で『随感録』は、入院中でも体調が良いときに口述筆記で継続していた。憲政資料室にある『随感随録』には収録されていないが、自宅に戻った後も「病院生活百五十日」などのまとまった文章を残している。 後日、四女を中心に編まれた『随感録』には、最終章として「無題」の短文が収録されている。その冒頭が最晩年の雄幸の心境を端的に表していると思えた。
<余はすでにひとたび死線を超えた。このうえの死生はただ天命のままである。以前のように生に対する執着もなければ、死に対する恐怖も淡い。もし死ぬるものならば万事休するまでである。>(池井優ら編『濱口雄幸 日記・随感録』より) 四女・富士子さんの回想によると、自宅療養中もゆっくりであるが快方に向かっており、社会で活動する意欲は失われていなかった様子だ。しかし、8月に急変。月を越えることなく、61歳で息を引き取った。