ライオン宰相・濱口雄幸の直筆に見る凶弾の痛苦 国立国会図書館で閲覧できる死への道程
■その激動は普通の疼痛というべきものではなく <それは列車側にいた一団の群衆中の一人のその下から異様なものが動いて「ズドン」という音がしたと思った刹那 自分の下腹部に異状の激動を感じた。その激動は普通の疼痛というべきものではなく、あたかも「ステッキ」くらいの物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じがした。 それと同時に「やったな」という頭のひらめきと「殺られるには少し早いな」ということが忽焉(こつえん)として頭に浮かんだ。
以上の色々の感じはほとんど同時に起こったので時間的の遅速は判らないくらいであった。>(『随感随録』の「十一月十四日」のページより) この銃撃の現場は現在のJR東京駅の構内にマーキングされており、付近の柱には事件の概要を記したプレートが取り付けられている。 ■登院から1カ月経たずに再入院 銃撃されて直ちに死を覚悟した濱口だったが、東京大学附属病院長の塩田広重医師による手術を受けて九死に一生を得ると、先に触れたとおり、翌年1月に退院して官邸で療養することになる。
完治を悠々と待つ心境ではなかった。臨時の首相代理には銃撃翌日に外務大臣の弊原喜重郎が勅命されていたが、入院中から衆議院で予算審議を終える2月までには復帰しようと心に決めていた。野党からの登院要請の声も届いているし、国会で成すべきことも山積みだった。一刻も早く登院を果たしたいという思いが当時の日記から偲ばれる。1月27日の日記。 <一、衆院本会議における質疑 本日をもって打切りとなる。以後はもっぱら予算総会に全力を注ぐこととなる。本日の質疑の題目は首相代理問題>(昭和6年1月26日と27日のページより)
はやる気持ちで病院の階段を上り下りするなどのリハビリを急いだが、退院後も身体の回復具合が思い通りについてこない。それどころか2月下旬から体調が急転して明らかに衰弱する。寡黙な決意の人である濱口をして、弱音を抑え込むのは難しかった。3月1日の日記。 <一、この日よりまたまた腹痛、腹鳴、下痢頻発、食機全く欠乏、症状いちじるしく悪化、上旬の登院可能疑わるるにいたる>(昭和6年3月1日と2日のページより/)