「他の誰よりも、濃い関係だったと思います」 早大・小宮山悟監督が語った徳武定祐さんへの思い
中日指導者時代の遺影
11月14日、悪性リンパ腫のため、東京都の病院で死去した徳武定祐さん(享年86)の通夜が21日夜、東京都内の斎場で、しめやかに営まれた。学生時代にプレーした早実、早大の関係者、早大コーチ時代の教え子、早大の現役学生のほか、プロ野球関係者らが参列した。祭壇には、中日における指導者時代の遺影が飾られた。生前、野球に対して本気で、真剣に向き合っていた精悍な顔つきであった。 【選手データ】徳武定祐 プロフィール・通算成績 徳武さんは1999年、早大で同級生(捕手)だった野村徹監督から打撃コーチの打診を受けた。以来、應武篤良監督、岡村猛監督の下、14年まで後輩たちを指導してきた。2019年1月1日、小宮山悟氏が早大の第20代監督に就任。新指揮官は、すぐさま動いたのだった。 ――思い出は尽きないと思います。 小宮山監督 残念です。大学3年(1988年)の冬からですから。徳武さんはユニフォームを脱いで(ロッテの)スカウトの仕事を手伝っているときに、たまたま(私が)ドラフト候補ということで、早実で同級生の醍醐(猛夫)さんがスカウト部長でしたから、一緒に東伏見グラウンドに来て、いろいろ話をしたところから始まっている。他の誰よりも、濃い関係だったと思います。 ――2019年1月の早大監督就任時、徳武さんに打撃コーチを要請しました。 小宮山監督 (14年限りでコーチ退任以降)ウズウズしているような感じに見受けられたので「暇をしているならば、力を貸してください」ということで、願ったり叶ったりだったんですかね(当時80歳)。若い連中を相手に指導するのは、生き甲斐みたいな感じがあったので。常々「俺はグラウンドで死ねたら本望だ」と言い出したら危険信号だと思っていたので、体調が悪かったのもありましたが、そうなる前に(20年限りで)コーチを外れてもらって……。本人の中ではやり切った感があったんでしょうけど、ただ、どこかで気にしながら、結構な頻度で連絡をもらっていました。こちらも「今日のスターティングラインアップです」とお知らせして、という関係が続いていて、勝ったら喜んでくれて、負けたら激励をしてくれていました。神宮のスタンドでもずっと、試合を見ていました。ところが、しんどくなったんでしょうか……。この夏の新潟・南魚沼キャンプに「いついらっしゃいますか?」と連絡すると「もう、病院なので、きつい。無理だ」と。こちらからは「無理をしないでください。ご自愛ください」と。この秋のリーグ戦では体調が優れて、神宮球場に戻ってきてくれると思っていたんですけど、1試合もスタンドで見ることができませんでした。 ――早大は今秋、開幕から4カード連続勝ち点を挙げてリーグ戦首位に立ち、春秋連覇を目前にしていました。 小宮山監督 (最終週、第9週の早慶戦で)あと一つ勝てば優勝というところで「ようやくたどり着きました」という連絡をすると「あと一つ、何が何でも!!」みたいな連絡をもらっていたんですけど、そこで(慶大に)連敗。人一倍、負けず嫌いですし、それが影響で体調が悪化してしまったのかなと、個人的には、そう考えていました。連絡が返ってこなかったので、心配はしていたんですけど……。おそらく、意識混濁の中でお嬢さんが連覇を伝えると「喜んでいました」ということでしたので、(1位同率だった明大との)優勝決定戦で勝って良かったな、と。負けていたら、シャレにならない状況ですから……。明後日(23日)から最後、頑張ります。