かなり変態的な内容なのに誰もが共感してしまう筆力…老人のヨボヨボ性愛を描いたノーベル賞作家の異色の1冊
文豪の小説を楽しむコツは何か。『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)を上梓した文芸評論家の富岡幸一郎さんは「『どんな人が書いたか』を知るだけで文学は一気に面白くなる。文豪は、私たちがいま抱えている辛さを、先取りして書き残してくれている」という――。 【画像】泣き出す女性編集者に「どうかしましたか?」と言った文豪 ■孤児として祖父を看取った「ヤングケアラー」 川端康成は明治32(1899)年、大阪市で生まれました。父親は開業医で、漢詩文や文人画を嗜(たしな)む教養のある人でしたが、川端が2歳のときに亡くなり、さらに3歳のときには母親も亡くしています。 そのため、幼い川端は母方の実家に預けられ、祖父母に育てられました。ところが、川端が7歳のときに、祖母も亡くなってしまいます。残された祖父も、川端が15歳のときに病に伏せ、川端が介護した末に亡くなってしまいます。 いまでは日常的に家族の世話や介護を担う子どもは「ヤングケアラー」と呼ばれますが、川端はまさにヤングケアラーだったのです。 次々と肉親が亡くなる現実を目の当たりにして、川端は幼いながらもつねに「死」を間近に感じていました。15歳で孤児となった経験は、のちに小説家としての人生にも、大きく影響することになります。 両親に続き、川端が7歳のときに祖母も亡くなってからは、祖父が亡くなる15歳まで、祖父と2人暮らしでした。川端を育ててくれた祖父は次第に老いていき、目も見えなくなり、晩年は寝たきりだったといいます。 ■寝たきりの祖父の介護を写実的に記録 祖父が1人で動けなくなってから、川端はずっと介護をしていたのです。 そのころのことを短編実録小説『十六歳の日記』に綴っています。タイトルにある16歳は数え年で、満年齢で14歳のとき。寝たきりの祖父の病状を写実的に記録した日記を26歳のときに発表したのです。 この日記には、10代の川端が、学校から帰宅しては祖父の介護をする様子が詳細に綴られています。祖父の“下の世話”をしていたことも記されており、当時の介護の大変さが、ひしひしと伝わってきます。 ---------- 「これくらい私に嫌な仕事はない。私は食事をすませて、病人の蒲団を捲り、溲瓶で受ける。十分経っても出ぬ。どんなに腹の力がなくなっているかが知れる。この待つ間に、私は不平を言う。厭味を言う。自然に出るのだ。すると祖父は平あやまりに詫びられる。そして日々にやつれて行く、蒼白い死の影が宿る顔を見ると、私は自分が恥しくなる。やがて、『あ、痛たった、いたたった、ううん。』細く鋭い声なので、聞いている方でも肩が凝る。そのうちに、チンチンと清らかな音がする」 『十六歳の日記』(『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』岩波文庫に収録) ---------- 川端は祖父が亡くなると、母方の親戚である黒田家に引きとられました。とても勉強ができる少年だったため、第一高等学校(現・東京大学教養学部)に進み、その後、東京帝国大学文学部国文学科を卒業。やがて、文芸誌『新思潮』を通じて、作家としての道を歩み始めます。