Z世代が囚われる「第三者目線」という強迫観念 メリットなき個人行動の「コンプライアンス化」
いちばん問題だと思うのは、内心「やりすぎたかな」と思うクラスの炎上が起きたとするでしょう? そのとき「これはやりすぎだ」と止める勇気のない人たちが、たまたま「次に炎上」した相手には妙に寛容に振る舞って、「私はバランスが取れている」みたいな顔をする例が増えている。ここまで来ると基準が曖昧どころか、完全にランダムで、ガチャ的です。 舟津:ランダム性の高い、無差別な攻撃性がすごく高まっている。 與那覇:「ガチャ」の比喩がここまで定着したのも、あまりにも世の中の「ランダムさ」が如実になって隠しようがなくなり、みんなが無気力になったからですよね。本書でも描かれるように、「出題ガチャですべったから大学ガチャに外れて、ゼミガチャでもろくな目が出ない、これも元は親ガチャのせいだ」みたく言っているのが一番楽ですから。
舟津:ランダムさが氾濫していますね。我々が気にしている第三者が誰なのかもわからない。誰であるかはわからないけど、その人に見られてるってことが重要視されている。そして毎日誰かがランダムに攻撃対象になっている。 與那覇:昭和までは、日本に特有の「あるのかないのか曖昧な基準」の担い手が世間と呼ばれて、それをどう評価するかで保守とリベラルが分かれました。つまり、世間とは長い慣習の積み重ねに基づいて、一定の妥当性を持つ価値判断ができる場なのか。それとも遅れた偏見ばかりが飛び交う、単なる同調圧力の場なのか、というわけです。
しかしSNSばかりが全盛で、対面でのご近所づきあいが空洞化した今は、そうした世間自体があるのかないのかはっきりしない。一方で第三者から絶えず監視され、場合によっては村八分にされるぞという不安だけは残っています。 舟津:確かに。 ■第三者への建前と自分の本音を使い分ける 與那覇:コロナ自粛の唯一のポジティブな遺産は、よくも悪くもそれなりに「世間は残っていたぞ!」と示したことかなと思います。「ぶっちゃけ自粛せず、営業します」という飲食店は結構あり、それでやっていけたのは「いやいや。今回の国の要請、ウチらの世間の基準としては『ないわ』なんで」という世界が現にあったからなわけで。