絶対に死ぬなよ…母のため、4度断った監督の座「できないよ。義理と人情で生きてきた」 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<27>
《現役時代、名を遂げた選手らの多くはその後、指導者への道をたどった。張本さんは…》 【写真】記念写真に納まる張本勲さん、王貞治さん、原辰徳さん、巨人の阿部慎之助監督、ソフトバンクの小久保裕紀監督 監督要請は4回ありました。最初は現役を辞めた昭和56年のオフ、ロッテです。重光武雄オーナーから(東京)代々木の自宅に呼ばれました。「監督をやってくれないか」という。当時の監督は山内(一弘)のおじさんがやっていた。私の性格で、山内さんを押し出して監督になりますか。それはない、できないですよ。義理と人情でずっと生きてきたんですからね。 「いや、ちょっと旅に出させてください。監督になるには未熟ですから」と丁重にお断りして、山本一義さん(広島商OBで当時近鉄コーチ)を紹介しました。2年やった。だめだったね(※57年5位、58年6位)。オーナーに再び呼ばれた。58年のオフです。 「まだまだ勉強が…」とお断りすると、重光オーナーは候補者のリポートを出せという。日拓時代に監督経験がある土橋正幸さんと稲尾和久さん(※西鉄黄金時代の投手、45~49年西鉄、太平洋監督)の2人を紹介した。土橋さんに二重丸を付けて出したけど、土橋さんはすでにヤクルトの投手コーチに決まっていた。で、稲尾さんになった(※59、60年2位、61年4位)。 3回目は平成元年のオフ、金田正一監督復帰のときです。金田さんは当時、球団役員でした。オーナーの息子(重光昭夫さん)が「張本にお願いしようと思っています」と役員会で発言すると、金田さんが「やめとけ。あいつはやらない。俺がやる」って言ったそうです。それで監督復帰した。後で聞いて「何で私にひと言ないんですか?」って。もちろんやらないけど、ひと言あって然(しか)るべきでしょ。金田さんはあのとき、契約金5000万円が入ってホクホク顔でしたよ。当時お金に困っていたようでしたから。で、すぐ辞めてしまったよ(※2年5位、3年6位)。 4回目は日本ハムから打診があった。大沢啓二さん(元南海選手、日本ハム監督)が球団常務をやっていた。将来は本拠地を東京の後楽園球場から北海道に移すという。遠いところに行くのはねぇ…ということで立ち消えになってしまったんです。 《母の反対…》
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