重信房子が語る、私がパレスチナで見た現実
■ アラファト議長が「転向」した理由 ──本書では、PLOと、そのトップにいてパレスチナ初代大統領にもなったアラファト氏を一つの中心にして話が展開されています。最初は武力でイスラエルと戦っていたアラファト氏は、後にイスラエルとの交渉路線に切り替え、そのことがPLOの内紛につながっていきます。アラファト氏とはどのような存在だったのでしょうか。 重信:パレスチナ人にとってアラファトは「愛すべきおじさん」といった存在です。そして、民族主義者として殺された人です(※アラファト氏の死因が自然死なのか他殺なのか、専門家の間でも議論がある)。 アラファトPLO議長に限らず、当時の指導部はいわゆる「民主的」ではありません。家父長制というか、愛情を持って家族の面倒を見るとしながら、強権を発動して国を仕切っていました。そういう意味では、アラファト議長はアラブの政治家の典型だったと言えます。 アラファト議長自身の言葉ですが、「物事は民主的に決めるけれど、一度決まったら後は独裁で遂行していく」という姿勢でしたから、PLOの改革に何度も取り組みましたが、パレスチナ民族評議会でいくら決めても、結局、上手くまとまりませんでした。 そして、やはり根本は路線上の問題です。パレスチナ全土を解放するというこれまでの主張を進むのか。それとも、かつてヨルダンが併合し、イスラエルに1967年以来占領されて来たヨルダン川西岸地区と、ガザ地区というパレスチナ全土の22%にパレスチナ国を作るというPLO主流の政治交渉によるパレスチナ国家建設路線を取るのか。このような路線の違いが、行動上の違いとなりました。 妥協の成立しないイスラエルに対して「政治交渉路線か」「武力闘争か」と方向性が分かれたことが内部の対立の原因だったと思います。 ──PLOの内紛に関しては、だいぶページを割かれています。 重信:1968年に、パレスチナに「民族憲章」という憲法のような規定が作られました。この中で、武装闘争によるパレスチナ解放をPLOの原則としたのですが、この約束がだんだんイスラエルとの攻防の中で変わっていきました。 最も大きくこの流れが変わったのは、1982年に、イスラエルがレバノンのベイルートまで侵攻して、PLO勢力を根こそぎ追い出した時です。この体験を経て「本当に武装闘争路線でパレスチナの解放が可能か」「国際政治の舞台で、パレスチナ建国に向けて交渉していくべきではないか」とパレスチナ内の方向性が「闘争」と「交渉」に分かれていったのです。 次に大きかったのは、ソ連が崩壊したことです。ソ連や東欧は、難民キャンプにいるパレスチナの若者たちに、医者や技術者になるために、国外留学の機会を用意するなど、いろいろと支援をしてくれました。そういう支援がなくなりました。 ミハイル・ゴルバチョフ氏が政権を取ってからは、ソ連はアメリカの意向を受け入れました。百数十万のユダヤ移民がイスラエルに流入し、その人たちが、パレスチナの占領地に入植地を作るために入ってきたのです。結果、パレスチナ人が暴力で追い出されていきました。こうして、パレスチナ人には困難な時代になっていきました。 アラファト議長はソ連東欧崩壊の現実の前で、西欧と協調したパレスチナ国家を作ろうとして「オスロ合意」を結びます。ただ、この合意はあまりにもパレスチナ側には酷なもので、全土解放が当初の目的だったはずなのに、全土のわずか22%にパレスチナ独立国家を建設するという方向に変えてしまった。この結果、アラファト議長はパレスチナの中で強い批判を浴びました。 ところが、ベンヤミン・ネタニヤフ氏が1996年にイスラエル首相の座に就くと、「22%」と言っていた部分までも併合していく方向に切り替えました。 去年、国連の総会でネタニヤフ首相が演説をした時に、新しい中東の地図を提示したのですが、そこにはもはやパレスチナはありませんでした。ヨルダン川西岸もガザも、占領地という区分けさえ取っ払い、イスラエルの土地となっていた。占領政策から併合政策に変わったのです。だから、パレスチナは絶望よりも戦うという選択を取るしかありません。