重信房子が語る、私がパレスチナで見た現実
■ 「日本にいた時も楽しかったですけれど、革命は楽しいのです」 重信:私が、パレスチナとの連帯を目指して日本を出たのは1971年2月28日でした。2000年の11月8日に逮捕されるまで、パレスチナ解放闘争に参加し、共に暮らし、活動してきました。 まだ日本で学生運動をしていた頃、権力との攻防が激しくなるほど「武装しなければならない」という思いが強まりました。この時代は、アメリカやヨーロッパでも、実力闘争・武装闘争が行われていました。 今から考えると近視眼的な考えだったし、日本の中で武装闘争をすることが正しかったとは思いませんが、当時は世界のベトナム反戦に共同したかったのです。 ちょうどその頃、1970年代のヨルダン内戦が起こり、ベトナム解放闘争のように、パレスチナにも解放を目指す人民勢力がいることを知りました。人民勢力がいるのならば、一緒に闘い、一緒に新しい革命を作れる。そういう思いでパレスチナに向かいました。 ──パレスチナの解放闘争に参加するというのは、どんな経験でしたか? 重信:現地に行ってみたら、人々はこぞって立ち上がり、武装闘争に乗り出していました。イスラエルの弾圧の内実を考えると、対抗するとしたら、現実的には武装闘争以外にないと思いました。 振り返って、自分たちの日本での運動は「人々(民衆)と一緒に共闘できていただろうか」と考えると、そうではなかったと気づいて反省しました。その時に「世の中を変えるということは、自分を変えることなしには成し得ないのだ」と実感しました。 嫌なことや苦しいこともあったはずですが、アラブの人々はオープンマインドで、話が通じやすい人たちでした。総じて、みんなと出会い、一緒に戦えて、本当に良かったと思っています。 私個人としてはたいへん有難い、良い人生を送れたと感じています。日本にいた時も楽しかったですけれど、革命は楽しいのです。 ──本書の冒頭部分には、イスラエルのネタニヤフ政権が、むしろパレスチナ内でハマースを育て、抵抗してくる機会を待っていた。そして、抵抗してきたら、抵抗勢力をより厳しく武力制圧して、パレスチナをますます自分たちの領土にしようと以前から企んできた、といった主旨のお話があります。 重信:1987年に、イスラエルの弾圧に我慢ができなくなったパレスチナの人々が「インティファーダ」という民衆蜂起を起こします。この闘いの中で、ハマースが妥協せず戦うことによって大きな存在になっていきました。 ハマースの前身は「ムスリム同胞団」ですが、これに対して、イスラエルは様々に便宜を図って支援をしていました。 当時主流だったパレスチナ解放機構(PLO)とヤーセル・アラファト議長を追い落としたかったからです。パレスチナ勢力に分裂を作りたい。だから、「ムスリム同胞団」を一生懸命に支援した。 ところが、ハマースが闘い始めるとイスラエルの要求どおりに動かないので、やがて、激しく敵対する関係になり、1993年代のオスロ合意の頃になると、もはや抹殺の対象になっていました。 国連決議でもある、国を追われたパレスチナの人々の反占領闘争を「ハマースのテロ」として、抑え込む口実にしているのが現在のイスラエルです。 ハマースからすると、イスラエル政府が「オスロ合意」の実行すら妨害しているのに、アラファト議長らPLO指導部がそれでもイスラエルとの和平の道を模索するのは「イスラエルの手先になり下がった」ようにしか見えなかった。だからこそ、ハマースはますます非妥協的になり、祖国を占領から解放したい人民がそれを支えたのです。