一家で5回も避難「私たちは死の順番待ちをしているのかもしれない」(2)
ガザ戦争1年 英語教師ラジャーさん一家の避難の旅
(1から続く) ラジャーさんが覚えている最も残酷な瞬間は、2月11日、イスラエル軍のラファ地域空爆があった夜だった。約60人が死亡した大規模な空爆だった。近くで轟音を聞いてテントの外に飛び出したラジャーさんは「戦車が私たちの後ろにあります!」と叫んだ。ラジャーさんはその日、死が身近にあることを、そして神の加護のもとにいることを感じたと振り返った。 「恐怖で泣きながら叫ぶ子どもたちを抱いていました。心臓が止まるほど怖かった」 家族は2月21日からラファから21キロメートル離れた中部のディル・アルバラに移動した後、テントで暮らしている。ここも繰り返される空爆であちこちにゴミと汚物が捨てられており、水因性伝染病が広がっている。洗濯洗剤は高く、使うとしても汚い水を処理する下水施設が全て破壊されたため、服を洗ったり皿を洗うことは難しい状況だ。 イスラム教徒にとって最大の祝祭日で、親戚を訪問したりするラマダン(旧暦基準、今年の新暦3月10日~4月9日)も悲しみの中で過ごした。カザのあちこちに散らばって暮らしている家族の生死を辛うじて聞くことができた。以前のようにおいしい食べ物をみんなで食べたり、暖かい朱色の電灯をつけたりすることもできなかった。ラジャーさんは「破壊だけが残った」と語った。 特に、ガザの子どもたちを教育してきた学校は、ほとんど完全に破壊された。ラジャーさんは未来まで崩壊したガザの残酷な現実に非常に憤っていた。 「9千人の子どもたちが死亡し、500の教育施設が破壊されました。今ガザには、教える先生も、教育を受ける生徒もいません。私たちの未来には方向がありません。(きれいではなく)汚れた水でも手に入れるため、安全に生き残ることが、この『苦しい道のり』の目標にすぎません」 ラジャーさんは過去12年間「ガザで最高の英語教師」だった。避難する前、彼女の家族は中流に近かった。ラジャーさんはガザ市の学校ファフミ・アルジャウィで10年生に英語を教え、月400ドルを稼いでいた。理髪師の夫一人で月700ドルの収入をあげていたという。 ラジャーさんが紹介したソーシャルメディアの写真の中の家族は、アパートと車、農地を所有していた。一家でお出かけをし、ケーキを食べる姿など、平凡な家族に見えた。ところが戦後、夫婦が合わせて400ドル(約1500イスラエル新シェケル・ILS)に収入が減り、家族の食事と生存を心配している。 空が青く高くなる先月、戦争が勃発してから11カ月が過ぎた。ガザ(北緯31度)の天気は、韓国(北緯37度)と似ている。幸い10歳以下の子どもたちに提供される小児麻痺ワクチン接種のために臨時ではあるが戦闘中止が実現し、ラジャーさんの4番目の子ども(7)と5番目の子ども(6)も先月4日、難民キャンプで小児麻痺経口用ワクチンを接種することができた。 しかし、先月7日、イスラエル軍が避難場所に指定したガザ南部の都市ハンユニスの難民キャンプを爆撃したというニュースが流れた。ラジャーさんが滞在するディル・アルバラからそう遠くないところだ。 ラジャーさんはこの日も爆撃の知らせに恐怖に包まれて一日を過ごした「平凡な一日」だったと振り返った。爆撃が続く時、ラジャーさん一家は難民村のテントで過ごし、飲み水と皿洗い用の水、または食べ物を受け取るために並んでいた。 「爆撃の音はいつも近くに聞こえます。私の家族は、もしかしたら(先に亡くなった人たちのように)死の順番待ちをしているのかもしれません。今日でしょうか、明日でしょうか。爆撃でなくても、悲惨な環境の中でゆっくりと死に向かっています」 ラジャー家はイスラエル占領で人口が急減したパレスチナのイブナから、夫のヌルディーン家の人々は第1次中東戦争で荒廃したマスミヤから来たという。ラジャーさん夫妻とその両親、子どもたちの故郷は、イスラエルがパレスチナを閉じ込めたガザだ。ガザ地区の外に行ったことはない。 「ナクバ(1947~1949年、パレスチナ人が難民になった戦争)以来70年余りの間、私たちは私たちの土地が消え、盗まれたことを忘れることができません。戦争が早く終わって平和に暮らしたい」。故郷での「苦しい道のり」はいつ終わるのだろうか。ラジャーさんと家族が世界に問いかける。ガザ地区保健省は2日、ガザ戦争勃発後、ガザ地区の死亡者数は4万1689人にのぼると発表した。 取材後記 7日にガザ戦争が勃発してから1年を迎える。ハンギョレは封鎖中のガザの現場状況を確認し、現地住民が耐えた1年を記録するためにガザ地区内に居住中のラジャー・ランティシさんと8月26日から1カ月間モバイルメッセンジャー「ワッツアップ」でやりとりをした。 韓国ではいつでもどこでもインターネットがつながるが、随時続く空爆で、ラジャーさんと通信をつなげるのは自由ではなかった。記者が質問を残せば2~3日に一度ずつテントから3キロメートル離れたインターネット接続可能地域に行き、有料(2時間で1イスラエル新シェケル、韓国ウォン約355ウォン)でインターネット網に接続し返事をすることができた。ラジャーさんは笑顔、テント、ひまわりの花、三日月のような多様な絵文字を使って感情を表した。これまでの生活を紹介するための写真数十枚と映像も送ってきた。 ラジャーさんは記者との1カ月余りにわたるインタビューに応じた理由を「私の話が世界に広がって多くの人々の心を温めることができればと思う。私はイスラエル人を憎んで(hate)いない」と述べた。ラジャーさんの親戚で韓国で暮らしているパレスチナ難民のサレ・アランティシさん(27)と難民と難民でない人々がつながり、共に成長する市民団体「ハノッカーズ(Hanokers)」のチョン・ヨヌク理事が取材に協力してくれた。 チェ・ウリ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )