二宮和也主演「ブラックペアン シーズン2」原作を読んでいてもドラマの展開はわからない 違うんだけど抵抗がない理由とは
■小説とドラマ、ぜんぜん違うのに不満を感じない理由
一方、ドラマはどうなっているか。世良(竹内涼真)が狂言回しなのは同じだが、原作では佐伯外科の改革に挑む主役格の高階(小泉孝太郎)がドラマでは当て馬みたいな扱いになり、代わって渡海(二宮和也)がダークヒーローとして物語の中心になった。舞台も1988年から現代に、消化器外科から心臓外科に変わっていた。扱われるエピソードもほぼドラマオリジナルだ。だが渡海の謎については原作が踏襲された。 シーズン2ではやはり舞台は現代に変わっているものの、世良や天城(二宮和也)のキャラクター設定はほぼ原作通り。世良が佐伯教授(内野聖陽)の命を受けてゴールドコーストの天城に会いに行き、そこで手術に立ち会うのも場所が違うだけで原作通り。ドラマの患者が韓国人のパク・ソヒョン(チェ・ジウ)なのは原作とは異なるが、財産をごまかしたときは賭けに負け、正直に申告したら勝ったという展開は原作に沿っている。 それ以降の展開も、派手な公開手術をやることやお金の払えない生活保護の患者の登場、他の手術を見学してスタッフを見極める過程など、原作と同じエピソードは登場する。が、それは要素を使っているだけで、ドラマの展開は別物だ。ドラマでは維新大の菅井達夫教授(段田安則)が高階を取り込み、AIを使った治療がらみで何やら企んでいる様子が描かれるが、原作にはそんな設定はない。むしろ原作では途中から院内でのパワーゲームが中心になっていく。 とまあ、原作ファンにしてみれば「ちがーう!」ということになるのだが、違うんだけど抵抗がないんだよなあ。なぜならそれは「どんな横槍が入ろうとも、つまるところ医療従事者は懸命に患者を救っている」という原作の根幹がドラマにもきっちり受け継がれているからだ。時代や舞台、キャラクター、物語の展開などが変わっていても、海堂尊が描こうとしていた世界観をドラマはきちんと受け継いでいるのである。 たとえば私は原作の高階の、明るく知的で、理想のためなら強引にも策士にもなるところが好きなのだが、ドラマの高階にそういう要素はない。むしろきれいごとに囚われた小物感すらある。にもかかわらず「あの高階をこんなふうにしちゃった」という残念さは感じず、「なるほど、こういう設定にしたのか。この高階が後にああなるのなら、それはそれで楽しいぞ」と思った。私は他のシリーズで後年の高階を知っており、そこに向かう途中に小物感溢れる小泉孝太郎時代があったと考えるのは何ら問題ないのだ。 原作と一緒とか違うとかではなく、原作とドラマという異なるレイヤーが重なってひとつの世界を多面的に見せてくれているのがこの作品なのである。同一の世界観を有することで、原作では描かれなかったけど、こういう世界がありえたかもしれない、と抵抗なく感じさせてくれるのだ。