ケロイド見せて実相語った「原爆一号」吉川清さん、被爆者運動を先導した先人の歩み…被団協30人オスロへ
[ノーモアヒバクシャ<被団協に平和賞>]
ノルウェー・オスロで10日、被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」がノーベル平和賞を受賞する。被爆体験を語ることがタブー視されていた時代に、自らのケロイドをさらし、被爆者運動を先導した人がいた。「原爆一号」と呼ばれた吉川(きっかわ)清さん(1986年に74歳で死去)。その行動が被団協結成の源流となった。受賞は、先人の歩みに光が当たる機会にもなる。 【写真】原爆投下後、広島の上空2万フィート付近まで立ち上る煙
「原爆一号の店」開店
吉川さんは、爆心地から約1・5キロにあった広島市内の自宅で被爆した。夜勤を終えて帰宅し、玄関から入ろうとした瞬間だった。熱線を浴び、背中と両腕の皮膚が焼けただれ、ケロイドとなった。
皮膚移植手術は、5年間で16回。1947年4月、入院中の病院を訪れた米国視察団の一人が吉川さんを見て発言した。「アトミックボム(原爆) ヴィクティム(被害者) ナンバーワン」。その言葉を日本で報じる際に「原爆一号」と訳されたという。
吉川さんは妻の生美さん(2013年に92歳で死去)と51年春頃、原爆ドームそばのバラック小屋で土産物店「原爆一号の店」を始めた。店を訪れた外国人の前で上着を脱ぎ、ケロイドの写真を撮らせた。修学旅行の小学生には被爆体験を語った。多くの被爆者が差別や偏見を恐れて口をつぐんでいた時代。「原爆を売り物にするな」。周囲からは痛烈な批判が浴びせられたが、揺らがなかった。
被爆の実相を伝えるとの信念はすごかった。金儲(もう)けをしようという姿勢はみじんもなかった」。中学卒業後に店でアルバイトをしていた高橋史絵さん(87)(広島市)は証言する。
51年に広島初の被爆者組織「原爆傷害者更生会」を結成。さらに翌年、原爆詩人の峠三吉さん(1917~53年)らと「原爆被害者の会」を作った。各地の被爆者組織の発足につながり、4年後の56年、被団協が誕生した。
吉川さんは77年に脳卒中で倒れた。被爆の実相を伝えねばとの信念は、生美さんや高橋さん、高橋さんの夫の昭博さん(2011年に80歳で死去)らが引き継いだ。昭博さんは広島平和記念資料館の館長も務め、国内外で3000回以上の証言を重ねた。