野外ジャズ・フェスの草分けは、ジャズの歴史講座から始まった
ジャズ・フェスティバルといえば、今ではすっかり夏の風物詩として定着しています。カナダのモントリオール・ジャズ・フェスティバルをはじめ、世界の各地で朝から晩まで繰り広げられるパーティーのような音楽の祭典は出演者も観客も熱狂させています。 フェスを語る上で外せないのが、野外フェスの草分けとなったニューポート・ジャズ・フェスティバルだ。企業家の妻の思い付きで始まった同フェスは、どのように発展していったのでしょうか? 伝説として語られる名演が記録されている映画や事件を振り返りながら、その名を冠するフェスの現在について、ジャズ評論家の青木和富さんが解説します。
フェス初回は簡単なジャズの歴史の講演で始まった
調べてみたら、ニューポートというタバコは、今でもあるようで、メンソール・タバコの代表的な銘柄として愛好者がいるようだ。日本ではなかなか簡単に入手できないようだが、米軍基地では売られているという。さて、このニューポートというタバコのオーナーがニューポート・ジャズ・フェスティバルの創始者なのである。当時大変な資産家だったようで、妻のイレーヌ・ロリアードの思い付きのようなこの計画に、資金的な保証を買って出た。言ってみれば「上流社会」のお遊びのような計画である。ただ、イレーヌはピアノを弾いたし、若いころ戦地でジャム・セッションを楽しむぐらいの経験はあったようだ。彼女は、1938年のカーネギー・ホールのジャズ・コンサートの熱狂的な光景が、このニューポートのステージでも生まれたらどんなに素晴らしいだろうと思い描いていたらしい。 問題は、このニューポートの上流社会は、ジャズへの理解がほとんどないことで、「黒人の音楽をやるなんて」といった相当の抵抗があったようだ。1950年代初頭の状況を考えると、これは何ら不思議ではない。そんなわけで、1954年の第1回目のオープニングには、白人人気オーケストラのスタン・ケントンによる簡単なジャズの歴史の講演が用意された。原稿は評論家のナット・ヘントフが書き、それを下敷きにケントンがジョークを交えながらの講演で、評判もよかった。むろん、これが奏功したというわけではないが、フェスティバルは予想に反して大成功を収めた。当時のニューポートの人口は約1万人、ホテルが4軒、モーテルが6軒という街に、1万を超える聴衆が集まったのだ。当然、宿舎は満杯で、あとは車の中、野宿ということになるが、これが後年、この名フェスティバルの終焉の要因となる。 余談だが、音楽ファンというものは、どうもこういう初めてのことに、引き寄せられるようだ。日本の話だが、1969年の「中津川フォークジャンボリー」、1974年に福島県郡山での日本での初めての野外ロック・フェス、「ワンステップ・フェスティバル」。ともに主催者の予想を超えるファンが集まり(後者は期間中7万人)、いずれも伝説的なイベントとなったが、同時にそれ故に簡単に継続が不能になってしまったようだ。そう考えると、いつの間にかファンがニューポートに集結したのも同じではないかと思えて仕方ない。そして、事態はどんどん進みコントロールが不能になる。