磯田道史「教科書に載っているのは、きれいごとばかりの『表の歴史』。その裏にある史実を暴く」
歴史学者の磯田道史先生が著した『日本史を暴く』(中公新書)が、2023年の年間ベストセラー第1位(トーハン・日販調べ。ともに新書・ノンフィクション部門)に輝きました。磯田先生いわく「知っているつもりの日本史も、史料をもとに読みなおせば、新たな面が見えてくる」とのこと。『日本史を暴く』の刊行に際し、読者へ向けた想いとは―― 【書影】2023年の年間ベストセラー第1位(新書・ノンフィクション部門)に輝いた『日本史を暴く』 * * * * * * * ◆教科書に載っていない歴史の裏 歴史には裏がある。歴史は裏でできている。『日本史を暴く』に書いてあるのは、歴史の裏ばかりだ。小学生になると、日本史の授業で「織田信長」という名前を習う。しばしば、教科書には、安土城跡の写真がある。これは表の歴史だ。 一方で、こんなことは書いていない。信長は地球儀を持っており、家来たちに、天地(宇宙)の形についての学習会を開いていたことや、さらには安土城下とおぼしき光秀の屋敷に信長がやってきて、広間が大きすぎると不機嫌になり、御膳を食べずに帰ってしまい、両者の間に、すきま風がふきはじめた、などの史実である。 こういう肝になる史実は、教科書には、ない。例えば、日本人が地球は丸いと、いつ、どのように知ったのか。そんな話は無視されている。 明智光秀が本能寺の変で、信長を襲って死なせたのは、よく知られているが、そもそも、信長は、なぜ光秀の謀反に気づかなかったのだろうか。逆にいえば、なぜ光秀は信長を欺けたのだろうか。歴史において「なぜ」の発想は大事である。
◆歴史には闇が多い 実際に、光秀に会ったヨーロッパ人の宣教師の書いたものがヒントになる。光秀と家族は、姿が上品であって、外交に向き、信用を得やすかった。そのうえ、光秀は自分は「人を欺くために72の方法を深く会得し」ていると、吹聴していた。その光秀が、さまざまな理由から、とある恐怖に駆られて、信長を襲った。 本能寺の変で、信長の遺体は焼けてしまって、遺骨は誰のものやらわからない有様だったと考えられるが、信長の遺体収容の記録も、あるにはある。京都・阿弥陀(あみだ)寺の住職・清玉(せいぎょく)上人が本能寺に真っ先に駆けつけた時の伝承を記した史料である。江戸時代の史料だが、私はその原本調査もした。信長の遺体の行方についての伝説も、『日本史を暴く』では検討している。 とかく、歴史には闇が多い。例えば、豊臣秀頼(ひでより)は豊臣秀吉の実の子であるのか。歴史研究者の間でも、議論がある。秀吉が朝鮮を攻めに大坂城をあけた留守中に、側室の淀殿(よどどの)が不倫をし、秀頼を宿したとの説もある。 秀頼の生母・淀殿周辺の人々が秀吉の留守中に「みだりに男女」の関係をもったとされ、口封じの粛清か、30人をこえる人間が「生きたまま火あぶり」にされたり「斬られた」りしたのは、事実である。 この時、秀頼の実父の可能性のある男も処刑された、とされるが、名前はわかっていない。そこで、この時、処刑された男性の名を調べはじめ、1人だけ実名を割り出せた。