NHK大河ドラマでは掘り下げない…近親婚で娘を次々に天皇に嫁がせ皇統との一体化を図った道長の「異様さ」
藤原道長は実姉の子(一条天皇)に娘を嫁がせ、その息子(後一条天皇)にも三女を嫁がせた。歴史学者の保立道久さんは「一条・後一条・後朱雀の三代にわたり正妃に娘をあてた道長の閨閥は、生物学的にみても異様だが、王家と道長の家族はほとんど融合し、道長は王権中枢を占拠した」という――。 【図表】天皇家と道長・頼道の婚姻関係 ※本稿は、保立道久『平安王朝』(岩波新書)の一部を再編集したものです。 ■9歳の後一条が即位し、三条天皇の嫡男・小一条は皇太子に 1016年(長和5)、三条天皇に変わって即位したのは、後一条天皇(9歳)。皇太子は三条の子ども、小一条(23歳)。摂政は天皇の外祖父の道長。道長はこれまで内覧の地位にあったものの、摂関の位についたことはなかったが、ここに名実ともに権力を確立したのである。 『栄花物語』は、三条の大嘗会(だいじょうえ)(編集部註:皇位即位後、初の新嘗祭)に奉仕した道長が、「こと限りあれば〔物事の決まりからいって当然とはいえ〕」、天皇の御輿に徒歩でしたがうありさまを、「なぞの帝にか、かばかりめでたき御有様にこそと見たてまつり思ふに〔道長の方がどの帝よりも立派にみえるのに〕、口惜しふこそ」と述べているが、その三条を譲位に追い込んだ道長は、実質上、王権を占拠するにいたったといってよい。 そして、1017年(寛仁1)、三条が死去すると、のこされた皇太子=小一条は、「小一条院」という院号によって前天皇の待遇をうけることを条件にして、自身で皇太子の座を下りた。道長は、小一条に対して皇太子守護の王章(レガリア)である壺切(つぼきり)御剣を渡さず、陰に陽に圧迫をくわえていたが、融和の印として小一条院に娘の寛子(ひろこ)を配し、それにのった小一条院は旧妻の藤原顕光の娘の延子(のぶこ)を見放したという。 ■彰子の第二子が皇太子になり、道長の権力基盤が完成 小一条院の代わりの皇太子は、後一条天皇の弟、やはり彰子腹の道長の外孫=後朱雀(ごすざく)であった(9歳)。ここに安和の変の結果発生した円融・冷泉の両王統の迭立は解消し、王統は「平和的に」10歳の後一条天皇と道長のもとに統一されたのである。そして道長は翌1018年(寛仁2)、11歳の後一条天皇の嫁に、自分の娘=威子(たけこ)(後一条の叔母にあたる。20歳)を配し、10月には中宮に立后する。その宴席で詠んだのが次の和歌である。 ---------- 此世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしとおもへば (藤原道長、『藤原実資日記』) ---------- そして、この年の年末には、先に『源氏物語』執筆の背景の一つであったと想定した、(一条天皇の皇后)定子と一条の忘れ形見、一時は皇太子と目された敦康親王が死去する。「たびたびの御思ひ違ひて、世の中を思し嘆き」ながらであった。 小一条院の廃太子のときには、ふたたび敦康の立太子の可能性がささやかれたというが(『大鏡』)、その死去は少なくとも道長にとっては伊周・定子問題を過去のものにした。道長の完全勝利である。王統統一の実現者という条件のもとに、ここに道長は、天皇制史上、空前絶後の権威を確保したのである。