若者にマッチ 深夜ラジオの人気者に まさかあの「偽の言い伝え」が当たるとは 話の肖像画 落語家・桂文枝<11>
《昭和42年5月の初高座でまったくウケず、客席に爆笑が起きたのはハプニングで黒猫が舞台を横切ったときだけ。劇場のお茶子(ちゃこ)さん(舞台のお手伝いをする女性)から「初舞台で猫が出た人は出世する」という偽の言い伝えで励まされるも自信喪失の日々。ところが…》 初高座から約5カ月がたった10月、師匠(三代目桂小文枝(こぶんし))に呼ばれて、突然「ちょっと毎日放送へ行っておいで」と言われました。というのは当時、東京から始まったラジオの深夜放送が若者たちの人気を呼び、大阪の各局も順次、番組をスタートさせていたからです。 毎日放送の番組(※42年10月のスタート当初の番組名は『歌え!MBSヤングタウン』=通称・ヤンタン)の担当は名プロデューサーとして知られた渡邊一雄さん。「お笑いの人間がほしい。誰かいないか」と若手の芸人を探していたそうですが、渡邊さんはもともと音楽関係が専門だから、お笑い界には詳しくない。そこで、(小文枝が所属していた)吉本興業の作家さんを通して、入門したばかりの僕にも声が掛かったようですね。 《大阪・吹田市千里丘(せんりおか)にあった毎日放送のスタジオへ行くと、10人くらいの若者たちが集まっていた》 「何かしゃべってみて」と言われた僕は、学生時代からやっていたような漫談や司会で話していたネタを3分ほど披露した。この連載の初回で話したように、当時の僕はまだ古典落語も小咄(こばなし)もロクにできませんので、学生時代の調子で話すしかなかったんです。つまり、(小文枝)師匠からさんざん注意された〝素人(しろうと)口調〟ですなぁ。 学生時代のキャッチフレーズ《独りぼっちでいるときのあなたにロマンチックな灯(あか)りをともす便所場の電球みたいな「浪漫亭(ろまんてい)ちっく」でーす》の名前のところだけ《「桂三枝」でーす》に変えて、披露したかな。若者たちには、初高座のときよりもはるかにウケました。〝芸人らしくない〟ところが逆に若者にはマッチしたようですなぁ。 すると、渡邊さんから「あんな話まだあるの?」と聞かれて、あれこれ説明したら「来週もこられるかな」って。「師匠にも話を通すから」と言われて、僕は「ヤンタン」にレギュラー出演することが、あっさり決まったんですねぇ。