「お母さんはお母さんの人生を歩いてください」作家・下重暁子さんが中学時代に母親を前に放った“セーラー服の独立宣言”
「ずっと親友同士のような関係」だったと母親との関係を語るのは女優・秋吉久美子さん。 【画像】対談する女優・秋吉久美子さんと作家・下重暁子さん 作家・下重暁子さんは、家族に尽くし続ける母親の姿に歯がゆさを感じ、中学生のときにセーラー服で母親に詰め寄った。 女優・秋吉久美子さんと作家・下重暁子さんによる特別対談『母を葬る』(新潮新書)から一部抜粋・再編集して紹介する。
セーラー服の独立宣言
下重: 幼少期に結核にかかって自宅療養していた期間、私はほとんど誰にも会わず、離れの一室に引き籠って本の虫のような生活を送っていましたから、早熟でした。ましてや、そんな多感な時期に敗戦も経験している。これから先は自分だけの力でしっかり生きていかなくてはならない、という意思を強くもったんです。 家族であろうが母は母、私は私。だから、何かにつけて世話を焼こうとする母の存在が鬱陶しくて仕方がなかったの。それで、中学生の時にはっきりといいました。 「私は自分で生きる道を選んで、自分で食べていきます」 母親を目の前に座らせて、 「あなたは心配する必要はありません」 「私と関係なく、お母さんはお母さんの人生を歩いてください」 セーラー服を着た中学生の私が説教したのです。 秋吉: すごい……。 下重: 生意気だったわよね。当時の社会では女性が家族のために尽くすのは当たり前という考え方が主流でしたから、自分のことは後回しにして夫や子どもの世話を焼いていた女性は多数派。 私の母が特別だったわけではないんです。それでも、母には自分自身の人生を歩んでほしかった。なぜなら、私もそうしたかったから。自分の人生の主人公は自分でしかないのです。
母は何も言い返さなかった
秋吉: 下重さんのお説教に、お母さまはどういう反応でしたか。 下重: とっても悲しそうでした。母は地主の家に生まれて不自由なく育ったから、女性が自立して生きていくイメージなんてもっていなかったんだと思います。私に不自由をさせたくない、という一心だったのではないかしら。 秋吉: 何も言い返さなかったのですね。感情を抑えていらっしゃったのかな。 下重: 母は私の性格を熟知していましたから、反論をしても火に油を注ぐだけだと思っていたはずです。静かに微笑んで、一人で散歩に出かけていきました。そのまま一緒にいたら、私がまたなにか言い始めることがわかっていたんでしょう。1時間くらいしたら帰ってきましたけれど。 秋吉: ある意味、お母さまのほうが一枚上手だったのかも──。その一方で、下重さんが貫く徹底的な「自分軸」、私は敬服します。 下重: 120パーセント自分のために生きていれば、たとえ気に食わないことが起きたとしても誰のせいにもできないし、言い訳もできない。自ら選択した道である以上、途中で苦しいことがあっても文句はいいません。 すべて自分の責任だと受け入れられる。それから、自分自身が好き勝手に生きていれば、他人の生き方にケチをつけたり、嫉妬したり、嫌がることを押し付けたりしませんよね。 秋吉: 誰かのために生きるということは、相手を思いやる利他主義のようにみえて、多くの場合は違いますね。大概は「感謝されたい」「自分を必要としてもらいたい」って、見返りを求めています。つまり、根っこには利己主義が隠れていることも多い。 下重: そういうことです。 秋吉: 近頃は「毒親」なんていう言葉も耳にしますよね。自分の子どもを支配下に置いて、傷つけたり、ネグレクトしたりする人たちのことを指すんだそうです。 私、母に「毒気」があったなんて夢にも思わないけれど、自分が叶えられなかった夢を娘の私に託そうとしていたのでは……という意味では、ずっと重荷を背負わされて生きてきたのかもしれない。かたや、下重さんは中学生の時点で「私は私の道を行きます」と宣言していたわけですからね。 下重: それはお母さまへの思いやりゆえでしょう。何かを押しつけられたわけではありませんから。私自身は自分のことだけを考えて、母に対峙した。結果的にはそれがよかったんだろうと思いますけどね。 秋吉久美子 1954年生まれ。1972年、映画『旅の重さ』でデビュー後、『赤ちょうちん』『異人たちとの夏』『深い河』など出演作多数。早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科修了。 下重暁子 1936年生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。民放キャスターを経て文筆業に。著書に『家族という病』『極上の孤独』など多数。
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