はるかギリシアやペルシアの影響も!? 飛鳥は、あらゆる文化が融合する国際都市だった
飛鳥時代の首都・飛鳥には、宮殿をはじめとして、金色の仏像がある瓦葺(ぶ)きのお寺、天を突く九重の塔、水時計や噴水、風変りな石造物などがあり、ロマンと不思議で溢れていました。想像力を膨らませて、当時の姿を深掘りしましょう! 飛鳥時代は、592年ごろから710年までを指し、その中心地は天皇の王宮が多く置かれた飛鳥──現在の奈良県明日香村でした。 先進文化を取り入れるため、聖徳太子は小野妹子を遣隋使として中国に送り、朝鮮半島を通して仏教やさまざまな文化を取り入れました。 このように日本と、朝鮮半島や中国とのつながりはよく知られるところです。 しかし今回は朝鮮半島や中国を飛び越えて、さらに遠くの国々の痕跡を探ってみたいと思います。 〇ガンダーラ! 仏像のルーツ 6世紀、仏教は仏像とともに朝鮮半島を経て日本に伝わり、まもなく日本でも仏像が作られ始めました。 仏像の歴史をさかのぼると、最初に作られ始めたのはガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)だと言われています。ガンダーラ地方はアレキサンダー大王の侵攻を受けたことにより、ギリシア文化の影響を強く受けています。 ですから飛鳥時代の仏像のなかにはどことなく、西方の風貌のものもありますよ。 参考画像の仏像は、足を組んで右手の指を頬に当てた、半跏思惟(はんかしい)と呼ばれるポーズを取っています。半跏思惟像の起源もまた、ガンダーラ地方だと考えられています。 この仏像は、まだ修行中のお釈迦様の姿だとも言われています。 確かに左右非対称のポーズは、自然な姿で人間的に思えますね。 若きお釈迦様が深く考える姿に、飛鳥時代の人々も深く感じ入り、いろいろな祈りを込めたのでしょうね。 〇飛鳥寺の造営に関わったかもしれない!?ペルシア系の人々の痕跡 日本初の本格的寺院は飛鳥寺というお寺です。 二十年かけて造営され、596年に完成しました。 日本初の瓦葺きの建物でもあります。 先進技術を持った渡来人の技術者が中心となって造営に当たりました。 この寺の造営に関して面白い説があります。 造営に関わった技術者の多くはペルシア(現在のイラン)の工人ではなかったか、というのです。 その証拠に、残されている寺工(てらたくみ)の名前が、ペルシア語で解釈できるといいます。 たとえば「意等加斯(いどうかし)」という名前は、ペルシア語で「図を引く者」と解釈できるそうです。 そんな遠くの人が来ていたなんて、にわかには信じられないですよね!? でもペルシア系の商人は古くから、商売をするために東の中国まで来ていたそうです。 海を渡って日本に来ていても不思議ではないかもしれません。 真偽はともあれ、飛鳥寺が建築、工芸、仏教学、医学など、当時最先端だった知識や技術の拠点となっていたことは確かです。 〇「トカラ」ってどこ!? 日本に渡って来た謎のトカラ人 実際に、遠くの国の人々がやってきた記録も残っています。 日本書紀には654年から657年にかけて、11人のトカラ人が九州に漂泊した、という記述があります。 トカラがどこの国かには諸説あります。 タイや、ミャンマーという説もありますが、現在のアフガニスタンにあったトカリスタンという国ではないか、と古くから指摘されています。トカリスタンはササン朝ペルシアの支配下にありましたが、651年にペルシアは滅亡してしまいました。 新天地を求めたトカリスタンの人々が、飛鳥寺を造ったペルシア人たちを頼ってはるばる来たのかも……と考えるとロマンがありますね。 トカラ人が来た時代よりも100年ほど時代は下りますが、正倉院には西方由来の宝物がたくさんあります。 宝物に使用されているラピスラズリは、アフガニスタン産だと考えられているので、品物と一緒に人も渡来したのかもしれませんね。 【今日のまとめ】 日本は、西方からやってくる先進的な文化の終着点でした。 飛鳥の宮は、いろいろな国の技術が融合し、独特の文化となって花開いた、エキゾチックな場所だったのです。 けれど実は、飛鳥時代の東アジアの国際情勢はかなり緊迫していました。 日本は必要に迫られて、あらゆる他の国の先進文化を貪欲に吸収していたのかもしれませんね。 【参考文献】 「日本仏像史」水野敬三郎監修 美術出版社 「飛鳥むかしむかし 飛鳥誕生編」奈良文化財研究所 朝日新聞出版 「古代飛鳥と奈良を考える」樋口隆康ほか 学生社 「ペルシア文化渡来考」伊藤義教 ちくま学芸文庫 「東アジアの古代文化050号」より「飛鳥寺と古代ペルシア」伊藤義教 大和書房 「飛鳥の都」 吉川真司 岩波新書
さかうえ さら