【ゴローズ・受け継がれしもの】仲間たちが語る、ゴローとの“絆”
いでたちも言葉も何もかもがカッコよかった
池:「中田商店の仕事を何度かしたあと、僕は写真家として独立したんです。正也先生の名声のもと、雑誌『婦人画報』の当時有名だった女性編集者からお声がかかって、その流れで60年代後半から(『婦人画報』と同じ出版社社の)男性誌『メンズクラブ』でも写真を撮らせてもらうようになりました。 そこから、どうしてゴローが『メンズクラブ』に登場することになったのか?って言うと、“おもしろい男がいるから”って僕が当時の編集者・佐川さんに紹介したのかなぁ。その辺りはしっかり覚えていませんね。僕から言わせれば、おもしろいヤツはすでに『婦人画報』や『メンズクラブ』にいたんだけどね…。 よく覚えているのは、ゴローがバイクにまたがっている姿。あの頃、まだ晴海埠頭っていうのは東京都のゴミ捨て場だったんです。そこに小さな飛行場があって、そこにゴローを連れて行ってね――“おもしろい場所があるから”って、いっしょに行くわけです。編集者がその写真を気に入って使ったかどうかは知りませんが、僕はすごく気に入って。ゴローとは、ニューヨークにも行きましたね」 池「70年代の初めに『ビブロス』というディスコが赤坂にオープンして、武さん(菊池武夫さん)とか稲葉賀恵さんとか、流行の最先端を行くクリエイターたちがみんなそこに集まっていたんだよね」 山田:「ビブロスのオープン当時、赤坂にちょうど空いている物件があったので、そこで“じゃあ、ビブロスに行くための服、ビブロスで踊るための服をつくろう”ということになって…店をオープンしましたね。店の名前は『パンツショップ グラス』。池さんがつけてくれました。その物件は売り先が決まっていたので3カ月限定だったんですけど、『何をしてもいい』って言ってくれたので、階段から室内まで全部に水をかけてね…。ゴローちゃんのアイデアだったんですけど、水をかけてカビを生やすんですよ。ニューヨークだかハワイだかに、そういう内装があったらしいんです。カッコいいからって。カビ臭いからお香をいっぱい焚(た)いて、ミシンを2台置いて。 でも、お金がないからシーチング生地しか買えなくて、それをダイロンで染めて服をつくったり…。僕は何もできなかったので、ゴローちゃんが先生になっていろいろと教えてくれました。武さんやジョー(ジョー山中さん)なんかもよく通って盛り上げてくれて、『メンズクラブ』がいちばん最初に紹介してくれたんですよね」