【ゴローズ・受け継がれしもの】仲間たちが語る、ゴローとの“絆”
仲間で何かをするときいつも中心にゴローがいた
池:「フレアジーンズにレザーをパッチワークしたりとか。あれは完全に、『ウッドストック』(1969年8月15日~17日<実際には18日まで>、米ニューヨーク州の農場で開催されたフェスティバル。今もなお、ロック・ファンの間で伝説として語り継がれています)の影響を受けていたよね」 山田:「そのあとは樹木希林さんの紹介で渋谷区松濤に物件を借りて、そこでしばらくやっていたんですが、まったくお客さんが来なくてね…。そんなタイミングで、たまたまある話がもち上がったんです。それは…原宿に、のちに『パパス』を設立する荒牧太郎さんがやっていた『マドモアゼルノンノン』っていう小さなブティックがあって、そこで毎日のように太郎ちゃんや仲間たちとコーヒーを飲んでいたんです。 今のラフォーレ原宿があるあたりに当時、教会があったんですよ。それが取り壊されるってことになって、“どうにかしてそれを阻止できないか”っていう話にみんなでなって、そしたら太郎ちゃんが“ゴローちゃん呼べよ”と…。そういうきっかけもあって――原宿の『上田ビル』(現在は『goro's Bldg.』に)って言うんですけど――その3階に僕のお店が入って、2階にゴローちゃんのお店が入ることになり、それが現在の『ゴローズ』ってわけです」
ゴローちゃんはいつも“やってる”からカッコいい
池:「その頃、僕もいろいろやってましたよ。ロックンロールのバンドをもっていました。『ファーラウト』っていうバンドの経営、マネージャーをしていたんです。それがね、コシノジュンコさんに頼まれたんだけど、彼女から“フォトグラファーで、しかもロックバンドのマネージャーなんてカッコいいわよ”って言われて、その気になっちゃった(笑)。写真の仕事はいろいろやっていましたが、芸能界の仕事がいちばん多かったです。 でもあるとき、そんな仕事に嫌気がさして、僕は高野山のお寺に入ることになるんです。約5年間…。その間はもちろんゴローには会っていませんでしたが、その後に僕が新聞記者になってからは、長らくスペインにいたとしても何か用事があれば、電話で連絡を取り合いながら会っていましたよ。やっぱりゴローとは、特別な絆がありましたから。そういう意味では、本当にゴローと明光っていうのはどこかで問題があったとしても、それが障害になることはなく、友だちじゃなくなるってことにはならなかったんです」 池:「ゴローはアメリカへ渡って、アメリカの文化に直に影響を受けるわけですよ。そして、ハワイの海岸で目覚めて銀細工をはじめるわけですけど、そのときの話を聞くと理解できますよ、“彼がどういう男か?”っていうことを。銀細工ってもともと、『どういう民族からの発祥か?』と言えば、アラブなんです。もともとアラブの技術なんですよ。それをアメリカのネイティブアメリカンが応用して、いろんな銀細工をつくったというわけです。そして、それにゴローが感化されて自分のものにしてしまった…だから、彼がつくる銀細工というのは、いろんなルーツをもってはいるけれども、『ゴロー独自のもの』と言えるんです。あの羽根のアイデアなんて、本当にすばらしいですよ」 山田:「ゴローちゃんに電話すると口癖のように毎回、“明光、オレやってるよ!”って言っていたね。それは、本当にやっていない人にはできないこと。もし自分に甘えていたら、そんなセリフ言えないですよ。とにかくゴローちゃんは、いつも“やってる”だったんです。それで続けて、“ありがたいよ!”って言うんですよ。“やってるよ! ありがたいよ! 明光”ってね。周囲の人やモノだけじゃなく、全てのものに感謝をしていたんだと思うな」