ガザの悲劇を今も世界に伝えているスマホ…生みの親、スティーブ・ジョブズの知られざるルーツと数奇な運命
なぜガザは戦場になるのか #2
中東研究の第一人者である高橋和夫氏によると、「イスラエル建国の際に流されたパレスチナ人の血が世界に報じられなかったのは、イスラエルによる情報統制があったからだ」という。だが現在はスマホの普及のおかげで戦火のガザの様子をつぶさに知ることができる。 【写真】エルサレムのイスラエル国旗
書籍『なぜガザは戦場になるのか』より一部抜粋し、イスラエル建国の背景とパレスチナ人が経験したナクバ(大惨事)、スティーブ・ジョブスと中東との関わりを紹介する。
イスラエル建国とナクバ
第二次世界大戦が終わると、戦争で疲れたイギリスには、もはやパレスチナを支配し続ける力も意志も残っていなかった。イギリスは委任統治権の返還を決めた。イギリスは、国際連盟の後継機関である国際連合に、パレスチナの統治権を返還しようとした。下駄を預けられた国際連合は、パレスチナの分割を提案した。 この分割の提案は、ユダヤ人側に有利であった。ユダヤ人が所有していた土地は、6パーセント程度にしか過ぎないのに、パレスチナ全体の半分以上(55%)がユダヤ人に割り当てられていた。人口は、ユダヤ人65万に対して、パレスチナ人は100万を超えていた。つまり、少ない方に半分以上の土地を与える内容である。これではパレスチナ人が決議に反対するのも当然である。なお、ユダヤ人とアラブ人の双方が強い愛着を持つエルサレムに関しては、国際管理が想定されていた。 1947年にパレスチナの分割案が国連総会の投票で採択された。投票結果は、賛成が33票、反対13票、棄権が10票、欠席が1票であった。当時は国連の加盟国数は、わずか57と少なく、現在の193の加盟国の約四分の一であった。しかも当時の加盟国の大半が欧米とラテン・アメリカ諸国であった。 この決議を受け入れたシオニスト側は、1948年にイギリスがパレスチナから撤退すると、イスラエルの建国を宣言した。逆にアラブ諸国は、国連決議を拒絶した。そして周辺のアラブ諸国の軍隊がパレスチナに侵攻して、第一次中東戦争が始まった。パレスチナ人自身は、組織的な軍事行動を取るだけの力を持っていなかった。 委任統治下でイギリス当局の厳しい弾圧を受けたせいであった。生まれたばかりのイスラエルは、大きな損害を出しながら、指揮系統がバラバラのアラブ各国の軍隊を撃破して生き延びた。これをイスラエルでは独立戦争と呼ぶ。また世界的には第一次中東戦争として知られている。