”心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが「愛の本質」を20年考え続けるきっかけになった「人類愛の啓示」とは何だったのか
「愛」の本質を解明する「最後のピース」が揃った
――苫野さんは、「人類愛」ともうひとつ、「愛」の本質を感じる体験をなさいますね。 苫野:石垣島での娘の水難事故です。私が少し目を離した隙に、次女が溺れて生死の境をさまよいました。 飛び込んで助け出し、必死で介抱し、病院で入院生活を送る娘を介護するあいだ、私はひたすら「私の命と引き換えでいいから、どうかあの子を助けてください」と祈りました。そのとき、あぁ、私はまぎれもなくこの子を愛している、と実感したのです。ここに「愛」の本質があるのではないか、と感じました。 このとき、「愛」の本質解明のための最後のピースが揃ったように思いました。それで、「愛」について書き始めることにしたのです。「人類愛」の啓示を受けた日から20年近くかかって、ようやく、哲学、特に現象学の考え方によって「愛」の本質を解明できるぞ、と考えるに至りました。 ――本書で苫野さんが「愛」の解明に用いる哲学の方法「本質観取」は、自分の体験や実感と向き合うものです。哲学は、頭の中だけで考えるもの、日常生活とは縁遠いもの、というイメージが持たれがちですが、「本質観取」は、悩みや苦しみを持つあらゆる人が実践できる、生き抜くための方法だと、『愛』を読んで感じました。
対話型授業「愛とは何か」で「心を燃やす」理由
今年から、熊本大学で、本書をテキストにした「愛とは何か」という対話型授業を始められたそうですね。どんな授業なのですか。 苫野:『愛』を読んでもらったうえで、グループに分かれて議論してもらい、そのあと私とさらに議論を深めるスタイルの授業です。いろいろな学部の学生が170人履修していて、毎回すごい盛り上がりです。グループでの議論もそうですが、私とのやりとりがまたすごく面白くて……。これだけ大人数の授業で、積極的に手を挙げて質問したり議論したりすることって、日本の大学ではあまり見られない光景だと思うのですが、みんなバンバン手を挙げてくれます。 ――苫野さんが、Xで、授業の前に心を燃やす、と、よく投稿なさっていました。あれはどういう心持ちなのですか。 苫野:『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎の有名なセリフに「心を燃やせ」というのがあるんですが、そのパクりです(笑)。私は哲学によって躁鬱を克服したんですが、気質的に熱情的なところはもともとあって。でもこの1年程ちょっと体を壊していて、ああやって自分を奮い立たせているんです。 「学び」に火をつける一つの契機として「感染する」ということがあると思うのです。ミメーシス、「感染的模倣」と言われます。私自身これまで尊敬する哲学者や研究者の方々に感染してきました。コロナ禍の時期はオンライン授業が長かったですが、オンラインでも少しでも感染が起こるようにいつも努めていました。 「学ぶ」って、単に頭だけで学ぶのではなく、体全体を通して学ぶものですよね。学生たちにそうやって体全体で学んでもらうためには、こちらも心を燃やしてささやかなりとも感染を引き起こしていきたい。だから、授業では毎回、終わったらへとへとになって動けなくなるくらい心を燃やしています。 もちろん、恋愛とか、性愛とか、デリケートなテーマについても議論するので、プライバシーに立ち入ったことは聞かない、相手を不快にするような議論はしない、などの対話のルールを設定したり、どうしても苦しくなるテーマでは議論に参加しなくてよい、など、心理的安全性をできるだけ確保しながら授業を行っています。 (聞き手・伏貫淳子) 【つづきの「「あなたが言ってることは現実的に無理」と言われた教育学者・苫野一徳さんの構想は、なぜいま「公教育の構造転換」を引き起こしているのか」では、『教育の力』を書くに至った苫野さん自身の学校生活での「もがき」、そして、多くの学校関係者から「現実化は無理」と言われたにもかかわらず、全国各地で「学び/公教育の構造転換」を引き起こしている苫野さんの構想「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」についてお聞きします。】
苫野 一徳(熊本大学教育学部准教授)