朽ちる古里で13年ぶりに響いた太鼓の音 「またつながれる」育ててくれた祖父へ恩返しの踊り #知り続ける
最初で最後の一時帰宅
実家は避難指示区域となり、約2週間後、久年さん、真理子さんと3人で一時帰宅した。防護服とマスクを着用し、許された滞在時間は2時間。道路はマンホールごと隆起し、信号機も止まっていた。倒壊した家屋の屋根は、目線と同じ高さにあった。 実家は居間などの窓が外れていた。こたつには湯飲みが転がり、野生動物の足跡まであった。 「もう戻る意味はない。自分が生きているうちに解決する問題ではない」 これが最初で最後の一時帰宅となった。12年12月、大熊町の大半が帰還困難区域に再編された。 時がたつにつれ、原発事故の被災地では避難指示が解除されていったが、森田さんが希望を抱くことはなかった。変わり果てた古里で暮らすイメージがわかなかったからだ。
「俺はどこで死ねばいいんだ」
福島県は14年、大熊、双葉両町に県内で出た除染土などを保管する中間貯蔵施設の建設を受け入れた。森田さんの実家は建設用地から外れたが、すぐそばを走る国道6号を挟んだ海側が用地になり、1800人以上が土地を提供した。 長男として実家を受け継ぐことを考えてアパート暮らしを続けていたが、17年には千葉県に自宅を新築した。 母と祖父母は震災後、各地を転々とし、14年に茨城県ひたちなか市に自宅を建てた。ようやく落ち着いたと思った15年7月8日、学さんが84歳で亡くなった。理髪店に歩いて向かう路上で倒れた。心疾患だった。 両親が共働きだった森田さんは、「祖父母に育ててもらった」という気持ちが強い。学さんは温泉や観光地によく車で連れて行ってくれた。入り母屋造りの実家も学さんが80年に建てた。「建ててよかった」と口癖のように言っていた。 ところが、避難を強いられた学さんは、大熊のことをほとんど話さなくなった。真理子さんは、学さんが漏らしたグチを覚えている。「家もなくて俺はどこで死ねばいいんだ」
「じゃんがら」復活
ひたちなか市の霊園に墓を購入し、学さんの遺骨を納めた。放射線量の高い状況が続き、大熊町に残る先祖の墓に納めるのは諦めた。 亡くなってから1年ほど後、学さんは真理子さんの夢に現れた。会話はなかったが「寂しさが伝わってきた」。寂しくないよう、先祖の遺骨をひたちなか市の墓に移した。 大熊町では原発事故から8年後の19年4月、放射線量が低いごく一部の地域で初めて避難指示が解除された。22年6月には帰還困難区域に設定された特定復興再生拠点区域(復興拠点)の避難指示が解かれた。ただ、実家がある地区は手つかずのままだ。 祖父の死から8年後の23年8月、転機が訪れた。 ひたちなか市の両親のもとに帰省した時、真理子さんからじゃんがらを復活させる動きがあると知らされた。 じゃんがらを習い始めたのは小学5年の頃。学さんが太鼓役だったこともあり、自らも太鼓一筋だった。新盆を迎えた親戚宅で踊るときは、学さんが見守ってくれた。 「何も恩返しができなかった」。祖父への思いを募らせていた森田さんに、誘いを断る選択肢はなかった。