本郷和人 対立する「徳川の権力」と「豊臣の権威」の間で揺れ動いた大名たち…権威を重んじた上杉謙信が<最終的に選んだ道>から実態を読み解く
松本潤さん演じる徳川家康がいかにして天下統一を成し遂げたのか、古沢良太さんの脚本で描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第45回「二人のプリンス」では関ヶ原で敗れ、牢人となった武士が豊臣のもとに集結していた。憂慮した家康は、秀頼(作間龍斗さん)を二条城に呼び、豊臣が徳川に従うことを認めさせようとするが――といった話が展開しました。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生が気になるあのシーンをプレイバック、解説するのが本連載。今回は「権力と権威」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし! 関ヶ原時点で59歳だった家康。豊臣家を滅ぼすのに「15年」もかけた理由とは… * * * * * * * ◆ヤフコメ欄での指摘について 今回は、ややエッセイ風に。 関ヶ原の戦い後の徳川と豊臣の関係を整理した前回の記事(『関ヶ原時点で59歳の家康が、豊臣家を滅ぼすのに「15年」もかけた理由とは…その背後に見え隠れする<圧倒的実力差>』)は、おかげさまでとても多くの方に読んでいただきました。 そんな中、いわゆるヤフコメ欄に、本郷は「権力」にばかり目をやるが「権威」の重要性をもっと考慮すべきだ、というご指摘を見つけました。 この意見、ごもっとも。権威という目に見えないものが、現実的に大きな力を発揮することはしばしばある。
◆権威、威光 例に挙げるべきは何といっても太平洋戦争でしょう。多くの前途ある若者が日本国と天皇陛下という権威を信じ、散っていった。 彼らの勇気や行動は、まさに驚嘆と敬服に値するものだし、彼らの犠牲があったからこそ今の私たちがある、という思いは年を取れば取るほど(つまり「死」を自然に意識することが多くなって)強くなります。ふと気付くと、靖国のそばを通るときには自然に頭を垂れるようになっていました。 一方で、私は研究者です。 なぜ日本の軍隊だけは「玉砕」ができたのか? この重い問題を掲げたときに、それを単純に日本への愛、といったものに丸投げしてしまうわけにはいかない。絶対に最後のところは解明できないとは分かっていても、なるべく冷静な分析をして、当時の人々の心情を理解するよう努力すべきです。 そうした姿勢は、中世史に対しても変わりません。足利将軍の権威とか、豊臣家の威光とか、そうしたものを無批判に信じるようなことは、厳に慎みたいと念願しています。 それはなぜか? 関ヶ原前後の大名たちを、具体的な事例として考えてみましょう。
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