映画『悪は存在しない』インタビュー【前編】 濱口竜介監督が語る、石橋英子との共犯関係。
『ドライブ・マイ・カー』の監督・濱口竜介×音楽・石橋英子が再び組んだ最新作『悪は存在しない』(4月26日より全国順次公開)。企画の始まりは、石橋さんが濱口監督にライブ用映像の制作を依頼したこと。そこから本作が完成するまでに、お二人が口を揃えて「綱渡りのようだった」と言うほど、偶然的でユニークなプロセスを辿ったとか。前編では、濱口監督にお話を伺います。
──濱口監督は今までtofubeatsさん、阿部海太郎さんと、錚々たるミュージシャンの方々に映画音楽を依頼されてきました。中でも、石橋英子さんとの創作上の共犯関係はますます濃密になっていると思うのですが、『ドライブ・マイ・カー』で出会われて以来どんな発見がありましたか? 石橋さんと組んで感じたことは、うまく言語化できるかわからないけれど、生み出される音楽それ自体が一つの風景として存在しているというか。風景は視覚的なもの、ショット的なものです。 映画そのものに1から10まで沿ったような、べったりしたタイプの音楽なら、そんなに使う意味はない。けれど、石橋さんの音楽はそれ自体で存在していて、その独立性が、映像と音楽の関係として気持ちいいなと。かといって映像を無視しているわけではまったくなく、映像を解釈していながらも一つの音楽として在るんです。 今回の『悪は存在しない』では、自分がこれまで作ってきた言葉数の多い作品とは違い、言葉がなくとも自ずと何かを語りかけてくる映像、つまり音楽的な映像作りを目指したのですが、それと対照的に、石橋さんの音楽はまさに映像的だと思います。
──最新長編作『悪は存在しない』は、石橋さんが濱口監督にライブ用サイレント映像を依頼されたことからスタートしたそうですね。 2021年末ごろにお話をいただき、漠然と面白そうだなと思ってお受けしました。かなり自由度の高い白紙状態から出発し、ある段階で、いつもどおり脚本を書いて、それをちゃんと映画にするつもりで演出し、その素材をもとにライブ用映像を作ろうと決めて。結果として「石橋さんの音楽に調和するのは、一体どういう映像なのか?」を考えるのに、1年ほどかかりました。その時点で出した暫定的な答えは、「石橋さんの音楽には、その制作環境が何かしら作用しているんじゃないだろうか」というものでした。 それで2022年12月、石橋さんが拠点にしている山梨と長野の県境にあるエリアへロケハンに行きました。石橋さんのご友人で自然のエキスパートみたいな方に案内していただいたんですが、季節はちょうど冬に入り、木は枯れ枝だらけで、生き物の気配が薄くて。石橋さんの音楽が持つ、音があるのかないのか微妙な領域だとか、ごく微細な音色の移り変わりだとか、そういう要素がこの自然の風景とどこか響き合うんじゃないかという気がしました。 またリサーチの中で、ずさんなグランピング場建設計画の話を耳にし、都会に暮らす自分にとっても他人事ではないと感じられ、その出来事を核にした物語を書き始めたんです。2023年1月に脚本が完成し、2月半ばから3月頭まで撮影をしました。その最中、役者一人一人の声が素晴らしいと思っていたので、撮影後に石橋さんに「サウンド版も完成させたい」とお伝えし、ご快諾いただいて。編集がある程度できた段階で、映像もお渡ししました。 ──そうして、ライブ用映像『GIFT』と、長編映画『悪は存在しない』が生まれていったと。『悪は存在しない』の音楽については、石橋さんにどんなリクエストの仕方をされましたか? かなりオープンだったと思います。普段なら「この映像に合わせて音楽をお願いします」という発注から始まりますが、それとは言ってみればプロセスが逆ですよね。とはいえ、前もって特定の音楽に合わせたわけではありません。自分がこれまで仕事をしてきて感じた「石橋さんの音楽」と調和するよう願って映像を撮りました。その映像に、音楽をつけていただいたわけです。だからあえて「石橋さんなら、この映像にどんな音楽をつけますか?」みたいに、委ねるつもりでお願いしました。どういう解釈をしてくださるか知りたかったし、純粋に楽しみでした。 ──劇中では、雪国特有の環境音のようなものが印象に残ったので、先ほどロケハンも冬だったとお聞きして納得しました。 録音の松野泉さんからも現場で「全然音がしないですね」と言われました。我々が歩く足音とか、たまに鳴く鳥の声とか、あとは水辺にいれば水の音がしますけれど、どれもわずかな音です。聴いていただいた劇中の音というのは、実際に録った環境音をベースにしながら、その「静けさ」を体験してもらえるように、「ここに鳥の鳴き声を加えよう」といった調整も加えています。全体に、我々が現場で感じた自然の中の静けさが際立つような音のつけ方をしました。 ──その静けさや自然の音と、石橋さんの音楽とのバランスは、どのようにとられましたか? メインテーマが本当に素晴らしい。撮影前にもほかのデモ曲をもらってはいたんですけど、映像を渡した後で、このストリングスのメインテーマが上がってきて。ごくシンプルに「これを聴かせたい」という、普段だったら抑制するようなタイプの感情が湧きました。映画音楽には観客を操作する側面もあるので、使いすぎるのはよくないと思っています。ただ今回は音楽と映像の親和性が高いはずだし、石橋さんの音楽を積極的に使うことで、自分が感じていた自然に対するニュアンスがより立ち上がるだろうという予感もありました。 とはいえ、音楽のよさと映画のよさがあんまり混同されてもいけないので、あえて曲をバチッと断つドライな使い方を選びました。このやり方だと、直前まで音楽を聴いていた耳で、急に環境音を聴くことになるので、まるで音楽のように環境音を体験することができるんじゃないか、生々しくその環境を感じることができるんじゃないだろうかと。そんなふうに、自然の音と音楽については、どちらも引き立つようにと考えていた気がします。 ──たしかに冒頭でも、ドラマチックなメインテーマが3分ほど流れてから唐突に途切れます。 元を正せば、(ジャン=リュック・)ゴダールです。彼の映画で、音楽を「美しいな」と思いながら身を委ねるように聴いていたらバチッと断たれ、「おっとっと」とつんのめった感じになる。すると、それまで音楽がつくことで、ある程度抽象化されたイメージとして見ていた、その画面の生々しさが急に浮き上がってくるという。その時の、観ている/聴いているこちらの身体の変化みたいなものが面白いなと、ゴダールの映画を観る都度感じていて、今回はそれが合うんじゃないかと思いました。 ゴダールの映画音楽が、石橋さんとの共通言語としてあったのはたしかです。60年代の、作曲家ジョルジュ・ドルリューが手がけるパターンがある一方で、80年代のもっと暴力的に、音を素材として使っているようなパターンもある。その両方をお互いに思い描いていたと思います。 [*これ以降、ラストシーンについての言及が含まれています。ご注意ください] ──冒頭とラストに音楽を入れることは決めていらしたそうですね? 決めていたというほど明確な見通しがあったわけではないですが、撮影中から、木を見上げてトラッキングしていくショットがオープニングショットになるだろうなと思っていました。で、ある種の反復として、それを夜に撮ったショットがラストショットになるよねと。この二つのショットにはずっと見ていられるような気持ちよさがあるんですけど、さすがに3分間くらい続くと、「なんなんだろう」と思う人もいるはず。でもメインテーマが入れば、おそらくずっとこの気持ちよさと付き合えるだろうなと思い、そうしました。まず視覚的なテーマがあり、それを音楽の呼び水になるようなものとして想定した形です。