刑務所暮らしで「幸せ」を感じる殺人犯は例外ではない 無期懲役囚が見た「悪党ランド」の実態
被害者の命が軽過ぎる
「人の命を奪い、遺族に多大な苦しみを与えたのに、反省しない受刑者がわずか十数年で何事もなかったように社会へ戻るのを見続けていると、『何という不条理なのか』と暗鬱な気分になります。正義の女神の手にする秤は、常に被害者の命が軽く傾きっ放しのように思えてなりません」 死刑が求刑されても、さまざまな事情が考慮されて無期懲役となることは珍しくない。そこには過去の判例をもとにした相場観のようなものも存在する。しかし、これを美達氏は厳しく批判する。 「死刑を科さずに無期懲役刑にする場合、判で押したように被告人の将来の更生の可能性・法廷での反省が見られる等と言いますが、刑務所で見る限り、反省や悔悟の念を持って暮らしている者は、指を折って数えられる程しかいません。遺族の無念さだけではなく、利得や性欲の為に、過失のない被害者の命を無残に奪った者に対する懲罰としては、その命を以って償って貰うのが、刑の均衡からしても妥当です。 また、殺害する為に、時間をかけ、恰(あたか)も拷問のように精神と肉体に甚大な苦痛を与えているケースには、被害者が1人であっても、被告人が未成年であっても、極刑を科すべきです。 死刑を科すにあたっては、裁判官が命を奪うことについて懊悩(おうのう)すると聞きますが、尊重されるべきは被害者の生命権ではないでしょうか。裁判官によって、死刑判決を下すことに躊躇(ためら)いがあるということは、人としては自然かもしれませんが、法律を用いて人を裁く身分だということを考えるならば、不適当と言えるのではないでしょうか」 死刑反対論を唱える人の多くは、受刑者側の人権を重視している。彼らの待遇改善に熱心に働きかける人もいる。それにより反省が深まり、更生が進むのならば社会にとってもプラスなのは間違いない。しかし、小島のようなケース、あるいは美達氏の伝える生々しい声もまた簡単に無視すべきではないだろう。
デイリー新潮編集部
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