選挙の予想が大外れしたエリートが「愚民」をバカにしているという「悲惨すぎる現実」
忘れられた社会階層
こういった知的エリートとしての自覚と責任感は、徐々に戦後の日本社会から消えていった。もちろん内心でひそかに「愚民」を見下している人間は多そうだが、大っぴらにエリートであることを自称したり、責任感を示すものはほぼ見られない。 その理由の一つは、あきらかに「社会階層」の存在が忘れられた点にあるだろう。自分を「中流」だと考える日本人の割合は敗戦直後から増加し、1970年代以降は実に9割以上が自らを「中流」だと捉えるようになる。「一億総中流」幻想の成立である。 社会学者の苅谷剛彦は、教師の間で生徒の社会階層に注目した議論(特に貧困に関するもの)が1950年代までは盛んだったにもかかわらず、1960年代以降は急激に減ったと指摘している(※10)。また、並行して大学への進学率も急増し、大学生からかつてのようなエリートとしての自覚が薄れていった。
責任感なき上から目線
こうして知的格差の存在は忘れられ、同時にエリートからエリートとしての自覚と責任感、大衆への奉仕の意識も消えた。残ったのは中途半端な「上から目線」だけである。 だがしかし、知的な格差は今も明らかに存在している。その一面に過ぎない学歴の格差だけを見ても、実は日本人の3割ほどしかいない(四年制)大卒層とマジョリティである非大卒層にはさまざまな格差があることがわかっている。社会学者の吉川徹は、そんな日本社会を「学歴分断社会」と呼び、「大卒層と非大卒層には、就いている職種や産業……賃金において明らかな格差があります。さらに、ものの考え方や行動様式も異な」ると書いている(※11)。 これほど知的に分断された日本社会で、知的に不調な層を「愚民」で片づけていいものだろうか。あるいはそもそも、彼らは本当に「愚民」なのか? ひょっとして、おかしいのは「愚民」ではなく高学歴エリートのほうではないか? 「愚民」たちとの「ものの考え方や行動様式」の違いに耐えられていないだけだったりはしないか。 もし「愚民」でないなら、そんな反省をする程度の知性はあっていいだろう。そして分断を煽るだけの「上から目線」を乗り越えるために欠かせないのは、日本社会が忘れた知的な格差を見つめなおすことである。幸い、材料はたくさん残されている。 ※1 https://x.com/YadaMakiko/status/1809921341841170526 ※2 https://x.com/TomoMachi/status/1853945087719583945 ※3 https://x.com/brahmslover/status/1858414655888408682 ※4 https://www.theguardian.com/commentisfree/2016/jun/24/eu-referendum-working-class-revolt-grieve?CMP=share_btn_tw ※5『にっぽん部落』(岩波新書) ※6『気違い部落周游紀行』(冨山房百科文庫) ※7「日本ファシズムの思想と運動」(『現代政治の思想と行動・上巻』未来社所収) ※8 いずれも「春曙帖」(『自己内対話』みすず書房所収) ※9「書斎の窓 -憂える"流される時代"」(『丸山眞男集16』岩波書店所収) ※10『大衆教育社会のゆくえ』中公新書 ※11『日本の分断』光文社新書
佐藤 喬