選挙の予想が大外れしたエリートが「愚民」をバカにしているという「悲惨すぎる現実」
農民に対するインテリの上から目線
そのような現象を記録した人間の一人に、戦中から戦後にかけて東京都八王子市の農村に暮らしたきだみのる(1895~1975年)を挙げていいだろう。きだは開成中学・慶應大学を経てパリの現ソルボンヌ大学で学んだエリートだが、農村を観察し、貴重な資料を多く残している。 きだの元には戦後、東京から農村の観察や教化を試みる左翼の大学生や大学教員が訪れることがあった。だがきだは彼らの農民への姿勢に反発を覚える。「そこには農民に対する侮辱のようなものを感じた。家に金があるため進学した者が大学で先生やオルグの口や舌を通じて覚えたことを、農民にくり返して農民を啓蒙し導く。……失敗するのは明らかだよ」。 鋭いきだは、インテリたちの農民に対する態度が単なる蔑視にとどまらず、もう少し複雑であることも見抜いていた。「農民……という言葉が出ると途端に同情的、感傷的、嘆息的になって『農民(或いはニコヨン)』はええですなあ」『労働が激しくてほんとにお気の毒ですよ』『全く相すまんですよ』と口先でいうくせがある」(ニコヨンとは日雇い労働者のこと)。今風に書くと、「上から目線」ということになるだろうか。 そしてきだは言い放つ。「インテリが農民に救いを与えられる、そんな筈はない。その考えは身の程知らずだ」(※5)。
エリートの自覚と責任感
きだがインテリに対してこのような批判を行えたのはなぜか。当時はインテリと大衆との区別が、つまり文化的・知的な格差の存在が、インテリたち本人に認識されていたからでもある。きだも農村で暮らしつつ、自らが農民たちとは隔絶した知的水準にあることははっきり自覚していた(※6)。 きだに限らず、ある世代までのエリートたちには、知的な格差の認識とエリートとしての自覚が明確にあり、それを隠さなかったし、ときに知的な格差が社会を突き動かすことも理解されていた。たとえば戦後を代表する知識人である政治思想史学者・丸山眞男(1914~1996年)が、1947年に東京大学で行った講演で、「インテリ層と国民一般との知識的乖離」が日本でのファシズム成立に大きな役割を果たしたと強調したことはよく知られている(※7)。 ただし注意すべきは、こういったかつての知識人たちのエリートとしての自覚は安っぽい「上から目線」ではなく、ある種のノブレス・オブリージュというか、社会と大衆への強い責任感に支えられている点だ。だから彼らの批判の矛先は「愚民」たちよりも、むしろ自らを含むインテリ層に対して向けられる。 たとえば、インテリの自覚と責任から逃れようとする者に手厳しい丸山は私的なノートでこうつぶやく。「インテリの『大衆』にたいする負い目の感情とないまぜになったものわかりのよさは、私にむかつくような嫌悪感を与える」。 さらに、東大紛争の年にはこうも書いた。「中年男が、――もっとひどい場合には白髪男が――助平面で『反抗する若者たち』にすりよって……いる光景ほど、日本のインテリの『知性』なるものの底の浅さをあらためて証明したものはなかろう」(※8)。 そして丸山はこう結論する。大衆が情報に流される現代で知的エリートであることの意味とは、決して特権ではない。そうではなく「大衆への奉仕ですよ」(※9)。 現在の高学歴エリートたちに、「大衆への奉仕」の意識はあるだろうか。むしろ「大衆への蔑視」のほうが先に立ってはいないか。