作家の加賀乙彦さん、1949年からの日記確認…東西冷戦に憂え・欧米長編への憧れつづる
激動の20世紀を舞台にした大河小説「永遠の都」などを残した作家で、文化功労者の加賀乙彦さんが、終戦後の1949年から70年以上にわたる日記を残していたことが分かった。読売新聞が調査した大学時代の頃の日記には、東西冷戦に揺れる日本社会への憤りや長編執筆への強い意欲が記されている。大半は読まれておらず、戦争体験世代の文学者の貴重な資料として本格的な研究が待たれる。
日記は、東京都文京区の仕事場に未整理の状態で残され、遺品整理の際に長男(62)が確認した。大学ノートに書かれた49年2月22日から7月7日、50年1月29日から51年4月29日の4冊の内容を調べた。
加賀さんは戦中に陸軍幼年学校に通った。49年に東京大医学部へ入学する一方、文学への傾斜を強めた。<原稿用紙10000枚の大作 1日に10枚として3年 1日に3枚として10年>(50年3月24日)と書き、<小説家としての理想と、医者としての現実とが、僕の心の中では常に相戦っている>(50年4月4日)と胸のうちの葛藤をつづった。
明治以降の日本の近代文学は、自分の内面を見つめ、比較的短くまとめる私小説が主流とされた。後に物語性豊かな長編を残す加賀さんは、一貫して欧米の大長編にあこがれた。<「静かなるドン」「チボー家の人々」(略)に対抗しうる現代文学が日本に一つでもあるか。これに対して宮本百合子の「伸子」や、直哉の「暗夜行路」や潤一郎の「細雪」や漱石の「明暗」では、あまりにも心細いではないか>(51年1月31日)。「風と共に去りぬ」をはじめ、読んだ作品の粗筋も頻繁につけていた。
東西冷戦が激化した当時、若い世代として、平和を求める気持ちも再三書きつけた。50年6月25日の朝鮮戦争勃発時には、<臨時ニュース。(略)同じ朝鮮人でありながら政治的対立と思想の奴隷となって、殺しあい罪を重ねる人達。如何(いか)なる理由であれ、戦争が肯定さるべき根拠は全然ないのだ>と思いのたけを記した。