「広い宇宙で、ひとつの星でありたいと願うだけ」大学生が書いた“マイノリティのささやかな願い”
「宇宙の外に何があるのか」知らないのに
宇宙は広くて、形がありません。それなのに、マジョリティは世界を無理やり立方体として認識しているようなものです。潔癖で几帳面で神経質な人たちがやっていることなのでしょうか。自らが形作った社会の範囲外にあるものはブラックアウトして彼らには見えません。私たちが宇宙の外に何があるのかを知らないのと同じです。 一般的価値観の是とするもの、非とするもの。その是非の判断基準もまた一般的価値観によって体系化され、そのことを信じて疑わない人たちによって運用されています。でも、宇宙の果てから見れば誤認であるかもしれないその価値観を、誤認であるかもしれないと考える想像力も懐疑心もこの社会には形成されていないのです。
あと何回傷つけられるのか
何にでも名前を付けないと気が済まないこの社会で、名前の付いていないものに社会的価値は与えられません。この世の中のほとんどのものに名前を付けてしまったつもりでいて、名前のないものに無関心を貫き、正義のような顔をして説教を垂れる人に、私たちはあと何回傷つけられればよいのでしょうか。私たちはあと何回傷ついて、生きていかなければならないのでしょうか。 周りの友達が好きなジャニーズや韓流アイドルの話で盛り上がっている中、YouTubeで動物の遠吠え動画や交尾動画を見漁っていた小学生の私に、多様性を謳う令和の社会はどんな手を差し伸べ、何と名前を付けてくれるのでしょうか。ジェンダー理解を推進すると声高に叫んだ法案のどこを探しても、探していたものは見つかりませんでした。
誰もが自由だったネットコミュニティ
小学生の私は、当時その探し物をネットの世界で見つけました。(ニンテンドー)3DSというネット接続が可能なゲーム機を通じて作られたコミュニティの中で、自分と年の変わらない子たちも大学生も社会人も、自分と似通った趣味嗜好を当たり前のように自由に表現していました。学校では理解されないことでも、そこにいる人たちは共感して、対等に話をしてくれました。 高校生になってからは、SNSというもっと大きな世界で、私はとても自由に息をすることができました。その一方で、母親は勝手に入った私の部屋で見つけたスケッチブックを見て、泣いていました。