元広島ドラフト4位監督と伝説の主将が代表兼GM、宮崎サンシャインズが挑む2年目の戦い
~脳腫瘍を抱えながら球団代表兼GMを引き受けた
「コーチという肩書きがありながらフロント業務だけで1年が終わったような感じです」 深江義和代表兼GMの1年目はグラウンド外業務に忙殺された。コーチ兼任の肩書もありながら、練習に参加することがほとんどできなかった。 「興行もファンの方々と関わった経験もありません。リーグやスポンサーさんとの関係など、全てが初めてのこと。もちろんチーム内部でも色々ありました。1つひとつ対処しているうちに1年が終わった感じです」 「チケット販売の値段設定すらわかりません。他球団を参考にしましたが宮崎の土地柄との違いもあるので試行錯誤の連続でした。そういった昨年の経験もあるので、今年は多少やりやすくなりました(笑)」 深江代表兼GMは1988年に宮崎南高が夏の甲子園初出場・初勝利を飾った時の主将(ポジションは捕手)。当時1年には広島等で活躍した木村拓也さんがおり、正捕手の座を争う関係だった。 「宮崎はプロ野球キャンプ地なので常に野球が身近にありました。でも地元チームが全国レベルでは勝てないことが多かったので、プロ球団ができるなんて想像もしていませんでした」
独立リーグ球団も全国に増え始め、NPBドラフトにかかる選手も出始めた。深江代表兼GMはアマチュア野球を盛り上げる「宮崎県野球協議会」の活動を手伝っていた中、2022年始めに宮崎球団設立の話を聞いた。 「宮崎の野球がまた1つ発展すると思いました。当初は球団と関わることは考えておらず、何かあれば協力しようというスタンスでした。本業もあるし身体の不安もあります。そうこうしていると球団代表兼GM就任をお願いされました」 宮崎市内で営んでいた飲食店はコロナ禍で客足に苦しんでいた時期だった。そして何より脳腫瘍という大病を抱え4度の手術を行なっていた。 「お店もうまくいってなくて運命的とも感じました。野球への思いもあり家族も後押ししてくれたので引き受けました。身体に関しても現状を全て伝えて、『何かあったら後はよろしく』と話しました」